山ケ野金山というのは、かつて鹿児島県霧島市横川町にあった金鉱山です。
なんと、鎌倉時代から金が採れていた日本有数の金山でした。
山ケ野金山の遺構群
金山で栄えた山には多くの人が集まり、町ができました。
江戸時代には、山ケ野金山と永野金山あわせて12,000人もの人が住んでいたと記録されています。
江戸時代には、山ケ野金山は薩摩藩の財政を支えました。
明治時代以降は近代化され、全国有数の産出量を誇っています。
山ケ野金山は、1943年(昭和18年)に、大戦下の不要不急産業とされ休山します。
戦後、再開していますが新たな鉱脈がみつからなかったため、閉山してしまいました。
金山街は、現在も山ケ野集落として残っています。
そのため、遺構は山に埋もれず保存されています。
なお、金山史跡は集落の中に点在します。
入口の方から、訪れた順番に書いてみます。
山ケ野金山入口
山ケ野金山の入口には、案内板が立っています。
このあたりを茶屋集落といいます。
その昔、金山関係者や役人が休憩した茶屋が集まっていました。
金山口屋跡
口屋は、金山の西側の入口にあり関所の役割を果たしていました。
東の入口は、番所といっていました。
入口から車で通ってきた道は、製錬所建設とともに明治時代に造られた道です。
それ以前は、口屋のある道を通って、山を下りていました。
明治以降は、新しくできた道を新道(しんみち)、旧道を口屋道とよんでいました。
刑所跡
刑所というのは、罪人を入れておく牢屋のことです。
現在の刑務所のようなものです。
金山で罪を犯した者だけでなく、他所で裁かれた罪人も入所していました。
恵比寿堂
金山全盛時代が偲ばれる、象徴的な石造のお堂です。
近くの遊郭跡や米蔵跡へ行く交差点にあるので、無視できません。
山ケ野集落を永年見てきた恵比寿さまです。
田町遊郭跡
遊郭というのは、幕府や藩公認の遊女屋街です。
周囲を塀や堀などで囲ってありました。
山ケ野金山の遊郭があったのは、田町という場所で、6軒の遊女屋がありました。
門司と長崎についで出来た遊郭で、九州三大遊郭といわれていました。
現在は、田んぼになっています。
米蔵跡
金山で働く人は、農業との兼業を禁止されていました。
大勢の金山関係者を賄うため、いくつもの米蔵が建ち並んでいた場所です。
大口(現在の伊佐市)や川薩(現在の薩摩川内市)方面から、ひっきりなしに馬で米が運び込まれていました。
青化製錬所跡
フランス人鉱山技師ポール・オジェが初めて山ヶ野金山に来た時、濁って流れる川を見て「あ、金はみんな流れている」と言ったそうです。
谷頭製錬所ができた時、同時に一本杉青化製錬所ができました。
谷頭の工場から板枠の溝を作り、ここまで金泥を運んでいました。
採金後の泥は川向かいに山の様に積まれていましたが、整理されて今は田んぼになっています。
青化製錬所跡は、少し離れた場所にありますので、車で行くのがおススメです。
護念寺跡
護年寺というのは、浄土宗のお寺です。
お寺はもうありませんが、古いお墓が残っていることから、歴史あるお寺というのがわかります。
寺へ行く天降川に架かる石橋が見事です。
山神社
1659年創建の、金山の神さまです。
金山関係者でたいへん賑わった神社でした。
薬師堂跡
薬師堂は、金山開山前からありました。
「山ケ野金山とは関係ないところがおもしろい」と説明してありました。
普請方
普請方(ふしんかた)というのは、室町から江戸時代にかけての土木を司る役所です。
現在でいう、国交省の現場事務所や、県庁の土木事務所みたいなところです。
御座所
御座所というのは、島津藩の郷でいえば御仮屋です。
つまり、殿さまや地頭の城みたいなものです。
現在は、公民館になっています。
その名も「山ヶ野ふれあい館」です。
玄関前の大きなイヌマキは、御座所の庭園の木でした。
金山奉行所跡
奉行所(ぶぎょうしょ)というのは、役人の仕事場です。
現在でいえば役場です。
山先役宅
山先役というのは、庄屋のように村人と役人との仲を取次ぐ役割でした。
現在でいうと、村長または区長といったところです。
現在も、住宅として残っていて、ご自宅としてお住まいになっています。
大石臼
山先役宅の前の畑にある石臼は、農作物を粉にするものではありません。
山ケ野金山で石臼といば、金鉱石を挽いて金を選鉱するための道具です。
秋葉神
秋葉神は、火の神さまです。
山ケ野集落は、家が密集していたため、ひとたび火事になると大火事になっていました。
そのため、秋葉神を勧請したと伝わっています。
ポールオジェ居宅跡
ポールオジェというのは、1877年(明治10年)に招かれたフランス人技師です。
山ケ野金山の、製錬や掘削技術の近代化を図りました。
谷頭搗鉱所(とうこうしょ)の近くに住み込んでいました。
ポールオジェ宅の前には、山から湧水が引いてあります。
ちょうど、水汲みに来ている人とお会いました。
谷頭製錬所跡
谷頭製錬所は、ポールオジェが建設した搗鉱(とうこう)精錬所です。
当時の山ケ野金山の幹部には、金山の近代化を喜ばない人もいました。
精錬所の動力は蒸気機関だったのですが、山への石炭供給もうまくいきませんでした。
1880年(明治13年)には、従来の方法に戻して製錬が続けられました。
1897年(明治30年)に、お隣の永野金山に電力製錬所が完成したため、谷頭製錬所は役割を終えています。
火入れ坑
入口からまっすぐ進むと竪坑につながり、永野からの大坑道とつながっています。
このあたり一帯が、一番金を多く産出した場所になります。
堅い岩盤を、火を焚いて岩をもろくして堀り進んだので、火入坑という名前になったといわれています。
とじ山坑
とじ山坑は、明治時代の基幹坑道のひとつとなります。
採取した鉱石は、火入れ坑を通じて、谷頭精錬所へ運んでいました。
1916年(大正5年)からは、永野へ坑内運搬ができるようになっています。
自稼堀坑跡
自稼堀坑というのは、幕府や藩直轄で採掘するのではなく、個人で採掘していた跡です。
1925年(大正14年)に自稼請負業が廃止になるまで、約250年間続いていました。
坑口は、一人がやっと通れる大きさです。
運搬、排水、落盤に苦しんだといわれていますが、なかでも一番問題だったのが通気です。
長時間作業を続けることで、酸欠になり事故につながっていました。
当時の人は、土中に悪風が発生したと考えていました。
まとめ
山ケ野金山は、自動車が普及する前に閉山した鉱山です。
したがって、集落は徒歩を前提とした町並みです。
道がせまく、駐車スペースがあまりありません。
山ケ野小学校跡の下に、見学者用の駐車場とトイレが用意してあります。
お店がなく自動販売機を見かけませんでしたので、飲み物持参がおススメです。
もし忘れた場合、ポールオジェ宅跡前では、湧水を飲むことができます。
結果、徒歩で集落内と坑口を見るのに、約2時間30分かかりました。
ただし、ムダに行ったり来たりしたり、道に迷ったりした時間も含んでいます。
観光地として確立していないのか、見学の方は全くみかけませんでした。
ただ、住民の方がいらっしゃるので、秘境感は全く感じませんでした。
見逃した史跡もあるし、また訪れたい場所です。
場所(山ケ野金山駐車場) 鹿児島県霧島市横川町上ノ
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