内牧小学校深葉分校 校舎

深葉分校 菊池阿蘇スカイラインに残る往時の深場地区の象徴

深葉(ふかば)分校は、かつて熊本県阿蘇市にあった内牧(うちのまき)小学校の分校です。

阿蘇町立内牧小学校深葉分校

現在は菊池阿蘇スカイライン沿いにあり、簡単に行くことができます。

僻地に文化を

阿蘇町立内牧小学校深葉分校 校門

深葉地区は、国有林のなかにできた営林集落です。

1959年(昭和34年)11月発行 広報くまもと131号 内牧小学校深葉分校の記事1
1959年(昭和34年)11月発行 広報くまもと131号

1959年(昭和34年)発行の広報くまもと 131号に、深葉分校の記事がありました。

1959年(昭和34年)11月発行 広報くまもと131号 内牧小学校深葉分校の記事2
1959年(昭和34年)11月発行 広報くまもと131号

「僻地に文化を」というタイトルからもわかる通り、道路と電気が文化的なものとして書かれています。

1959年(昭和34年)11月発行 広報くまもと131号 内牧小学校深葉分校の記事3
1959年(昭和34年)11月発行 広報くまもと131号

1957年(昭和32年)までは、菊池水源から営林署の林道をさかのぼって行くしかなく、 電気もきていませんでした。

内牧小学校深葉分校

当時、深葉分校へ通うのは、大部分が熊本市へ行ったことがない子どもたちでした。

内牧小学校深葉分校

文化の弊害

内牧小学校深葉分校 体育館

1959年(昭和34年)、校区には32戸 200名の住民がいて、深葉分校には、小学生が31名、中学生23名通学していました。

内牧小学校深葉分校 体育倉庫と体育館

しかし先生が足りず、小学1年生から小学3年生までが同じ教室で学ぶ、重複式学級だったといいます。

内牧小学校深葉分校 体育倉庫の絵

平野部ではあって当たり前の道路と電気は、深葉分校にとっては文化的なものとして受け入れられています。

内牧小学校深葉分校 校舎

一方、道路と電気の開通により営林署の作業が効率化され、地域の仕事がなくなっていった様子が書かれています。

内牧小学校深葉分校 校舎と体育館

教育インフラの整備とともに、本校との学力差はなくなっていったのでしょう。

内牧小学校深葉分校 校舎と運動場

しかし地域には、いち早く過疎化の波が押し寄せることになります。

内牧小学校深葉分校 プール

整然とした校内

内牧小学校深葉分校 菊池阿蘇スカイラインの地下道

付近には数軒の住宅が見えますが、占めるのは圧倒的に杉林です。

内牧小学校深葉分校 教室

校地を見渡すと、閉校後も手入れされているのがわかります。

内牧小学校深葉分校 教室

今でこそ内牧まで車で30分、 菊池市までも30分と僻地感は薄れました。

内牧小学校深葉分校 教室内

しかし、林業以外に主産業がなかった深葉地区に、代々残る人は少数派です。

内牧小学校深葉分校 教室内

分校は、深葉地区の往時のにぎわいを象徴する存在となっています。

内牧小学校深葉分校 郵便ポスト

沿革

内牧小学校深葉分校 閉校記念碑
1920年(大正9年)営林署の私立学校として開校
1935年(昭和10年)内牧尋常高等小学校深葉分教場へ改称
1941年(昭和16年)内牧国民学校深葉分校へ改称
1947年(昭和22年)内牧町立内牧小学校深葉分校へ改称
1954年(昭和29年)阿蘇町立内牧小学校深葉分校へ改称
2003年(平成15 年)阿蘇町立内牧小学校へ統合し閉校
内牧小学校深葉分校 閉校記念碑の裏面

場所 熊本県阿蘇市西湯浦 1464-87

内牧小学校深葉分校 生涯学習まちづくりモデル町とかかれた広告塔

関連記事

【関連記事】阿蘇山ロープウェイ 活火山の火口で営業した果敢な索道事業

【関連記事】湯の谷キャンプ場 あの有名な阿蘇観光ホテル直営キャンプ場

【関連記事】東海大学阿蘇校舎 ロビン像とともに熊本地震の教訓を後世に伝える遺構

【関連記事】仙酔峡ロープウェイ ミヤマキリシマの群生地にあった東阿蘇観光開発の核施設

【関連記事】卑弥呼の里 阿蘇の草原に残される大型リゾート構想の夢の跡

【関連記事】九州南部の遺構探訪記事 まとめ