鹿児島県阿久根市波留に鎮座する菅原神社は、ミステリー性を秘めた神社です。
菅原道真公をまつり、学問・受験の神さまとして地域で大切にされています。
菅原道真公
現在は学問の神さまとして知られる、菅原道真公 (845-903)は、平安時代の貴族です。
醍醐天皇時代、右大臣を務めていたとき、謀反を企てたとして、大宰府へ左遷されています。
実際には道真公は無実であり、のちに謀反は左大臣・藤原時平が道真公を陥れるために流したうわさということがわかっています。
901年、大宰府への赴く際には従者も付かず、費用もすべて私費でした。
左遷後は、政務にあたることは禁じられ、俸給もなしというひどい扱いを受けています。
そのためか、903年には病死しています。
怨霊化と神格化
道真公の死後、朝廷の要人が次々と事故や病気で亡くなり、天災や飢饉などが起きます。
ついには、醍醐天皇の崩御も重なり、天皇家はじめ公家や大名の間では道真公の呪いといわれるようになります。
道真公の怒りを鎮めようと、御霊を神として崇め北野天満宮にまつりました。
死後ではありますが、大政大臣の役職が贈られています。
戦国時代と大戦末期の怪
時は流れ戦国時代の末期、薩州島津家の断絶により、この地域は荒れに荒れたといわれています。
薩州島津家の墓というのは、かつて鹿児島県出水市にある薩州島津家歴代領主のお墓です。 薩州島津家は島津家の有力分家でしたが、 豊臣秀吉の朝鮮出兵で断絶しています。 薩州島津家とは? […]
島津氏の統治が回復すると、治安は次第に回復し再び集落が形成されたといいます。
さらに大戦末期には、菅原神社は被災していませんが、 周囲は空襲に見舞われています。
このとき、菅原神社に避難していた数名が、忽然と姿を消し行方不明になりました。
空爆で死亡したと考えられましたが、 被災しなかった社殿をなぜ離れたのかは、わからず終いでした。
鬼子母神像
社殿向かって右側には、鬼子母神の石造がまつられています。
鬼子母神は仏教に由来する善女神ですが、以前は他人の子を食べる凶暴な鬼でした。
お釈迦さまは鬼子母神の末子を隠し、子を食べる罪を教えたことで仏教に帰依します。
以来、安産・子育ての神となっています。
まとめ
阿久根市波留の菅原神社は、美しく手入れされ大切にされています。
しかし、過去の出来事から、現在も曰くのある場所として語られることがあります。
- 菅原道真公の怨念
- 戦国時代の荒廃
- 大戦末期の空襲
なにより、以下のような霊の目撃スポットといわれているためです。
- バラバラの遺体
- 地を遣うように移動する人間とおぼしき物体
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