覚井観音堂 エンブリー博士が研究した須恵村の観音さま

覚井(かくい)観音は、相良三十三観音霊場の22番札所です。

近くの上手観音も22番札所となので、スルーしないようにご注意ください。

覚井観音堂

1955年(昭和10年)から、エンブリー博士という人類学者が、日本の農村研究のため住んでいた住居のすぐそばになります。

県道改良のため移転

覚井観音堂は、1977年(昭和52年)、県道33号線の拡張工事のため、県道沿いから現在の場所へ移されています。

覚井観音堂正面

残念ながら、それ以前の歴史は文献がなく不明です。

江戸時代初期に、相良三十三観音霊場の22番札所として選定されています。

ご本尊

ご本尊は十一面観音菩薩坐像です。

覚井観音

相良三十三観音のなかでは、常時開帳されている貴重な観音さまとなります。

覚井観音堂の御朱印箱

安産と家内安全の観音さまとして知られます。

場所 熊本県球磨郡あさぎり町須恵

須恵村

須恵村と言えばエンブリー博士で世界に知られることになった村です。

須恵村は2003年(平成15年)、市町村合併によりあさぎり町須恵となっています。

旧須恵村役場
旧須恵村役場

合併時の人口は1,471人でした。

熊本県で最も小さな村として知られていました。

エンブリー博士

アメリカの社会人類学者、エンブリー博士は、1955年(昭和10年)に妻と娘の3人で須恵村を訪れました。

妻のエラは日本にいたことがあり、日本語が堪能だったそうです。

覚井観音堂全景

全国20ヶ所の候補地から、規模が小さく協力者が見込める須恵村を選び、1年間滞在しました。

日本の農村の社会構造を調べるのが目的でした。

覚井観音堂 側面

当時の須恵村の人口は275戸1,620人でした。

調査は戦前唯一、そしてはじめての人類学者による日本の農村の研究となりました。

覚井観音堂 斜景

エンブリー博士がアメリカに帰って5年後に開戦をむかえました。

その時、唯一の日本の地域社会を知る研究だったため、注目をあびます。

覚井観音堂 正面近景

1939年、「日本の農村 須恵村」を刊行し、世界に須恵村の社会や家族構造、教育、宗教や年中行事を紹介しました。

妻のエラも「須恵村の女たち」という、女性のネットワークに焦点を当てた本を出版しています。

県道33号線

エンブリー博士は、日本の占領政策におけるアメリカの自民族中心主義を戒め、日本に対する非難を批判しました。

その結果、FBIの監視を受けることになっています。

エンブリー博士住居跡の碑

エンブリー博士は須恵村を立つ前夜、以下のようにいったそうです。

須恵の暮らしは厳しい。

朝は早く、激しい肉体労働が伴う。

しかし、焼酎があり、たくさんの焼酎を飲める祭りでいっぱいの陰暦の暦がある。

暗い夜々があり、魅力的な娘たちがいる。

月光が、美しい山々があり、そして年を取っても話ができる古い友達がいる。

・・・私は、球磨郡の魅力を理想的なものと考えてもいいと思った。

関連記事

【関連記事】人吉・球磨の安産祈願スポット17選

【関連記事】人吉球磨三十三観音 Web上で巡礼できるようにしてみた

【関連記事】相良三十三観音めぐり 札所まとめ

【22番札所1】子供や妊婦を守る上手(うわて)観音とおいちの墓

【23番札所】栖山観音堂 森の中の大きな観音さま