上椎葉ダムは、宮崎県東臼杵郡椎葉村にある、九州電力が建設したダムです。
建設当時の上椎葉は、九州山地の大秘境で、大自然を相手にした難工事でした。
椎葉村
椎葉村は、九州山地のど真ん中にある村です。
かつては、九州地方でも極めて交通の便が悪い村とされていました。
村の中心部を流れているのは、耳川です。
耳川下流の都市、日向市へ通じる道路が開通したのは、1933年(昭和8年)のことでした。
今でこそ、アクセス道路は、改良が進んできましたが、村内は、まだまだ狭い道だらけです。
そして、通行止めや、時間通行止めの路線が多いこと。
大雨が降った後は、峠越えののアクセス道は、注意が必要です。
日本初の大型アーチ式ダム
九州のダムを語る時、上椎葉ダムは避けて通れません。
上椎葉ダムの着工は、1950年(昭和25年)です。
当時、日本にはアーチ式ダムの技術蓄積が、まだありませんでした。
アーチ式ダムの利点は、コンクリートの使用量が少なく、経済性に優れる点です。
ただ、地震国日本では、耐震性に不安がある反面、当時は、実証データがありませんでした。
そして、雨の多い九州での、洪水処理能力にも不安がありました。
重力式ダムは、ダム自体の重さにより、水圧に耐えるような構造です。
一方、アーチ式ダムは、 両側の岩盤に圧力を分散させて、水圧に耐える構造となっています。
上椎葉ダムの建設予定地は、両岸とも堅く、アーチ式ダムが妥当との結論となりました。
未知な部分を克服するため、当時の科学技術の粋を尽くして、建設されたダムなのです。
スキージャンプ式の洪水吐きです。
両岸から放流した水が跳ねて谷の中央部でぶつかります。
巨大なエネルギーを相殺して、堤体への影響を軽くしようとするものだそうです。
想像を絶する難工事
ダム建設には、延べ500万人が動員されました。
ダム本体工事が始まったのは1952年(昭和27年)でした。
当時 、椎葉村につながる道路は、離合もできないような狭い道路しかありませんでした。
資材は40㎞以上はなれた、延岡市から運搬しました。
それはそれは、長い道のりに感じたことと思います。
不慣れな作業員の操作による、掘削機械の故障も多かったといいます。
そして、何よりも難工事となった原因は、毎年襲う台風による洪水でした。
機材の流失や人的被害が出ていたといいます。
完成間近には、建設中の発電所が流されてしまいました。
ダム建設による、殉職者は105名に上りました。
日向椎葉湖
上椎葉ダムによるダム湖を、日向椎葉湖と呼ぶようです。
新平家物語の著者、吉川英治氏により命名されたということです。
壇ノ浦の戦いで、源氏に敗れたのが平氏です。
平氏の残党は、日本各地の人が住んでいないようなところへ移り住みました。
椎葉村も、そのひとつといわれています。
平氏が来なかったら、多くの集落が存在しなかったのかもしれません。
ちなみに、日向椎葉湖は、ヤマメ釣りで有名です。
諸元
名称 | 上椎葉ダム |
場所 | 宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良 |
水系 | 耳川 |
河川 | 耳川 |
型式 | アーチ式コンクリート |
事業者 | 九州電力 |
施行者 | 鹿島建設 |
ダム湖 | 日向椎葉湖 |
目的 | 発電 |
最高出力 (発電) | 90,000kw |
堤高 | 110.0m |
堤頂長 | 341.0m |
堤体積 | 390千㎥ |
流域面積 | 279.6㎢ |
湛水面積 | 266ha |
総貯水容量 | 91,550千㎥ |
有効貯水容量 | 76,000千㎥ |
着手/竣工 | 1950/1955 |
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