菊池飛行場というのは、1940年 (昭和15年)に完成した、旧日本陸軍の飛行場です。
福岡県の太刀洗陸軍飛行学校の分教所が置かれ、飛行兵の訓練が行われていました。
花房飛行場
菊池陸軍飛行場は、1935年 (昭和10年) に建設がはじまり、1940年 (昭和15年)に竣工しています。
その面積150haは、陸軍飛行場では県内最大規模で、飛行学校のほか、 通信学校、陸軍病院が置かれていました。
地元では、花房飛行場ともよばれています。
太刀洗飛行場に置かれた陸軍飛行学校は、西日本各地の陸軍飛行場を分教所としています。
菊池飛行場は、新田原飛行場や知覧飛行場と同じく、陸軍飛行場の分教所となっています。
戦後になると、引揚者や復員兵らの開拓地として払い下げられ、住宅地になっています。
長い時間が経ちその面影はほぼなくなっていますが、一部に当時の遺構が残されています。
菊池飛行場ミュージアム
菊池飛行場ミュージアムは、泗水孔子公園の一角に開設されています。
さすがに航空機など派手目のものはありませんが、一室にびっしりと資料が詰め込まれています。
ただし、ミュージアムの中は撮影禁止なので、現地で見るしかありません。
オリジナルグッズなども売ってありますので、Tシャツを買ってみました。
入館料 | 200円 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
休館日 | 年中無休 (2023年 (令和5年)現在) |
ミュージアムの方は常駐していませんが、カギがかかっていなければ料金箱が置いてあり入館できます。
正門
菊池飛行場・菊池教育隊の正門が片方だけ残っています。
正門の前には、立哨所の基礎が残されています。
場所 熊本県菊池市泗水町吉富
高架給水塔
高架給水塔は、菊池飛行場に残される最大の遺構です。
陸軍病院の給水施設だったのですが、1946年 (昭和21) から入植してきた開拓団の生活用水として使われるようになっています。
2007年 (平成19年)まで現役で使われていたため、解体を逃れています。
ガソリン貯蔵庫
ガソリン貯蔵庫はしっかりした建物で、屋根には土がかぶせられ芝生が植えられていました。
内部も2室に仕切られています。
戦後は、開拓団2世帯の住居として使われたため、現在もその姿を留めています。
場所 熊本県菊池市泗水町吉富
木造大型格納庫基礎
菊池飛行場の飛行機を収納する、大型格納庫のコンクリート基礎部分です。
大型なのでよく観察したいのですが、 どうみても民有地内にあるので道路からながめることになります。
場所 熊本県菊池市泗水町吉富
鉄骨格納庫基礎
鉄骨格納庫も飛行機などを入れる建物ですが、コンクリート基礎部分だけが残されています。
民家の塀として利用されているので、私有地には入らないように見学します。
営門
兵士や物資が出入りしていた、営門の門柱は両方が残ります。
門の中には航空教育隊の施設があり、戦後に住宅地となったものです。
場所 熊本県菊池市泗水町吉富
富の原慰霊塔
大戦末期になると飛行学校は閉鎖され、特別攻撃基地として使用されることになります。
菊池飛行場も特別攻撃隊の中継基地となっています。
1945年(昭和20年)には、数回にわたる米軍の空襲で飛行場は使用不能となっています。
空襲による犠牲者は、少年飛行兵 38人を含め、60人とも70人ともいわれています。
整備廠の門柱
菊池飛行場の航空整備廠(せいびしょう)の門柱は、片方だけが残されています。
周囲はすっかり住宅街になってます。
門柱を撮影するとどうしても民家が映り込んでしまいます。
場所 熊本県菊池市泗水町吉富
通信教育隊の門柱
通信教育隊があったのは、国道387号線の西側です。
もちろん国道は戦後に造られたものです。
通信教育隊の営門の門柱は、富の原公民館の敷地に移設され慰霊碑となっています。
風呂場・給湯施設
菊池飛行場の風呂場・給湯施設跡のコンクリート遺構を見ることができます。
まとめ
戦争遺構が史跡として見直されはじめたのは、戦後50年を経てからです。
その間、多くの建物や構造物は危険なこともあり、解体されてしまっています。
その中で残された貴重な遺構を見ることができるのは、地域の方々のおかげです。
世代が代わった後も、生の戦争を語り継ぐ証人みたいなものです。
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