田原坂(たばるざか)というのは、熊本市北区植木町にある坂道です。

西南戦争で、17日間に及ぶ死闘が繰り広げられた激戦地中の激戦地となります。
西南戦争

西南戦争というのは、1877年(明治10年)、西郷隆盛率いる鹿児島士族が起こした、わが国最大にして最後の内戦です。

明治維新は身分制度を廃止しましたが、これは武士が特権を失うことを意味します。

これを不満に思い、戊辰戦争後も各地で武士による反乱がおきていました。

征韓論の対立から政府を去り鹿児島に帰っていた西郷隆盛は、私学校という陸軍士官養成学校を設立しています。

本来、私学校は、武士たちの不満を抑える目的もありました。

そのため、鹿児島には全国から幕末の若い武士たちが集まっていたのは事実です。

しかし明治政府は、私学校を反乱軍養成施設と危険視することになります。

私学生になりすました政府の密偵が自白した、西郷隆盛の暗殺計画が暴動の発端といわれています。

開戦に乗り気ではなかった西郷隆盛は、これを機に意を決したといわれています。

熊本城

西南戦争では、熊本県下ほぼ全域が戦場となっています。

薩軍が九州から本州への経路を確保する第一歩として、最初に向かったのが熊本城です。

熊本城は江戸時代の初めに、築城の名手・加藤清正が築いた名城でした。

実は築城当時、薩摩藩島津氏の攻撃を想定していたといわれます。

事実、薩軍は52日間にわたる包囲にもかかわらず、熊本城を落とすことができませんでした。

西郷隆盛は、「清正公と戦しよるごたる」とつぶやいたといいます。

一の坂・二の坂・三の坂

一方、政府軍の南下を防ぐための拠点が田原坂です。

当時は、高瀬(玉名)から熊本へ大砲を運ぶ唯一のルートでした。

熊本側から見ると、藪や左右の高所から攻撃しやすく、防御に適しています。

実は、田原坂も加藤清正が、北の備えとして築いた拠点です。

薩軍は多数の塁を築き濠を巡らして、官軍を待っていました。

田原坂は、長さ1.5㎞、標高差60mのゆるやかな坂です。

熊本城を目指す官軍と薩軍が、17昼夜も一進一退を繰り返した、西南戦争最大の激戦地です。

坂の下から攻め登ろうとする官軍は前方の見通しが効きません。

一の坂・二の坂・三の坂と三つに分かれる田原坂の最後の300mを越えられなかったといいます。

一日32万発もの弾雨が降り注ぎ、弾丸が空中で激突したほどといわれています。

しかもこの間、雨が降り続き、3月の寒空のなか、文字通り泥沼の戦場となっています。

薩軍の銃は雨に濡れると不発になっていました。

さらに、軍服や靴を備えた官軍に対し、木綿のかすりにわらじ姿の薩軍兵士は、次第に体力を消耗していきました。

谷村計介戦死之碑

谷村計介は、熊本鎮台の伍長で、高瀬(玉名)から南下してくる第1旅団本部に、熊本城はまだ陥落しないことを伝えています。

その道中で農民姿に変装し薩軍に2度も捕まりますが、脱走に成功します。

さらに、官軍には薩軍の密偵と誤解されながら、その任務を果たしています。

田原熊野座神社

田原熊野座神社は薩軍が拠点としていて、官軍の攻撃に遭っています。

戦跡の調査により、境内からは数多くの小銃弾や薬莢、四斤砲弾片などが見つかっています。

石燈籠にもそれらしい痕跡が残ります。

弾痕の家

田原坂公園に入ると、まず象徴的な建物が目に入ります。

弾痕の家は、当時田原坂の頂上にあった松下彦次郎家の土蔵です。

両軍の弾痕の残る写真をもとに再現されたものです。

中には両軍の負傷者を分け隔てなく手当てした、博愛社の資料が展示されています。

現在の日本赤十字社の前身です。

展望台

北側の木葉(このは)。

正面の二俣台地。

南側の横平山や吉次峠(きちじとうげ)は、いずれも西南戦争の激戦地です。

直下は、JR九州鹿児島本線が通る船底です。

熊本市田原坂西南戦争資料館

西南戦争の歴史学習施設です。

数多くの遺品や遺物が展示されています。

開館時間 | 9:00~17:00 |
休館日 | 12/29~1/3 |
入館料 | 一般(高校生以上) 300円 小中学生 100円 |

西南役戦没者慰霊之碑

高さが12.5mと高いのは、JR九州鹿児島本線の車窓から拝めるようにしたためです。

壁面には、両軍の戦死者ひとりひとりの名前が書かれています。

薩軍は鹿児島県をはじめ、九州出身者が大多数を占めています。

一方、官軍は全国各地から集まっていたことがわかります。

薩摩塚
薩摩塚は、戦国時代の薩摩軍・島津氏との戦いにおける戦死者を葬っていたものです。

もともとは、旧植木町役場入口と国道3号線との交差点付近に建てられていました。

さらに、西南戦争における薩軍戦死者約20名が、地元住民の手で合葬されました。

1968年(昭和43年)、バイパス建設のためこの地に移設されています。
美少年像

美少年像は、実際のモデルはいません。

雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかな美少年
肥後民謡の歌詞で登場する「馬上ゆたかな美少年」の像で、田原坂で戦った若者たちすべての象徴です。

田原坂のオオクス

美少年像の横にあるクスノキは、樹齢350年とも400年ともいわれます。

西南戦争当時にもこの場にあって、現在も幹枝を金属探知機で調査すると、銃砲弾による金属反応があるといいます。
崇烈碑

崇烈碑(すうれつひ)は、田原坂激戦と勝利の意義が官軍の立場から書かれています。

撰文と篆額は、有栖川宮熾仁親王陸軍大将二品大勲位です。

西南戦争に関する記念碑で、明治政府が直接関与した唯一のものです。

七本薩軍墓地

七本薩軍墓地は薩軍の七本柿木台場跡で、311名が埋葬されています。

濃霧のなか薩摩軍の寝込みを襲い、官軍はこの地を占領しています。

七本官軍墓地

植木、滴水、木留などの戦闘で戦死した官軍兵士のお墓です。

政府軍の軍人276名、軍夫10名、警察官14名が埋葬されています。

背負いの松

背負いの松は、七本官軍墓地に植えられている松です。

鱸成信(すずきしげのぶ)は、庄内(現在の山形県)藩士で、政府軍の陸軍少尉として西南戦争に派遣されました。

一方、弟の伴兼之(ばんかねゆき)は当時、西郷隆盛を慕って私学校に留学していたため、薩軍として参戦しています。

兄弟で敵同士として戦い、田原坂で共に戦死しています。

1894年(明治27年)、兄弟の遺族が故郷より松を背負ってきて供養のために植えたため、背負いの松とよばれています。

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