野原小学校 まぼろしのダム水没
野原小学校は、かつて熊本県球磨郡相良村にあった村立小学校です。川辺川ダム建設予定地のわずか、数百メートル上流にあった小学校です。廃校となった理由は、湖底に沈むためでした。しかし、ダム本体工事は着工されておらず、小学校跡地はまだ水没していません。
野原小学校は、かつて熊本県球磨郡相良村にあった村立小学校です。川辺川ダム建設予定地のわずか、数百メートル上流にあった小学校です。廃校となった理由は、湖底に沈むためでした。しかし、ダム本体工事は着工されておらず、小学校跡地はまだ水没していません。
越野尾(こしのお)小学校は、かつて宮崎県児湯郡西米良村にあった、村立小学校です。旧校舎は、一ツ瀬ダム湖に水没するため移転を余儀なくされた学校でした。現在の小学校は、10数年前の閉校時の姿を、ほぼそのまま残しています。今でも、地域の方に愛されているのを感じました。
板谷(いたや)小学校は、かつて宮崎県児湯郡西米良村にあった村立小学校です。板谷小学校の校舎は、村の中心部である村所から5㎞ほどの、大王鶴という集落にあります。現在は、板谷地区の物置のような使われかたをしているようです。
岩井谷小学校は、かつて宮崎県西都市大字尾八重にあった、公立小学校です。マニアの間ではよく知られています。1987年(昭和62年)に閉校となった後は、キャンプ場として利用されていたようです。現在は、キャンプ施設としても老朽化したため、立入禁止となっています。
一ツ瀬小学校は、かつて宮崎県西都市大字中尾にあった公立小学校です。1962年(昭和37年)から、たった20年の間に、100名もの児童が減少しています。水没地の方が見たら、気を悪くされるかもしれませんが、ダムの水没地の苦悩がわかるような気がしました。
小川小中学校は、かつて宮崎県児湯郡西米良村大字小川にあった村立学校です。小川城には幕末まで米良氏が居城していました。明治になり小川城の敷地内には、小川小学校が建てられています。閉校となったのは、1989年(平成元年)のことです。
俣口分校は、かつて熊本県球磨郡球磨村大字一勝地の俣口地区にあった、一勝地第二小学校の分校です。俣口へ行くには、那良口から那良川をひたすらさかのぼります。俣口分校までも遠いのですが、さらに上流には遠原(とおばら)という集落があるというから驚きです。
一勝地第二小学校は、かつて熊本県球磨郡球磨村大字三ヶ浦にあった村立小学校です。現在は、「田舎の交流館さんがうら」として利用されています。 球磨村発足前の一勝地村は、旧一勝地村と三ヶ浦村の2村が合併した村でした。球磨村発足前は、松谷小学校といっていました。
下槻木(しもつきぎ)小学校は、かつて熊本県球磨郡多良木町にあった町立小学校です。下槻木集落は、槻木大師堂や四所神社がある地区になります。県最南東端の集落です。小学校の建物は、ほぼそのまま残っており、体育館は現役で使われています。
槻木(つきぎ)中学校は、かつて熊本県球磨郡多良木町大字槻木にあった公立中学校です。槻木中学校は、1986年(昭和61年)に多良木中学校へ統合されています。校舎は、ふるさとの森休養施設として整備され、現存しています。
槻木(つきぎ)小学校は、熊本県球磨郡多良木町大字槻木にある町立小学校です。この学校の面白いところは、休校中の学校を地域活性化のため再開させ点です。町では、この限界集落を活性化させるため、雇用を創出し移住者を呼び込もうとしました。しかし方針転換で再休校となっています。
神瀬(こうのせ)小学校は、熊本県球磨郡球磨村大字神瀬にあった村立小学校です。現在は、「神瀬福祉センターたかおと」として利用されています。2010年(平成21年)村内小学校の統合で、一勝地小学校と渡小学校の2校体制となりました。旧神瀬村の小学校が、ひとつもなくなってしまいました。