竹田神社は、鹿児島県南さつま市加世田にある神社です。
加世田で晩年を過ごした島津忠良公をまつります。
ご祭神
日新偉霊彦命(ひわかくしたまひこのみこと)
島津氏の中興の祖、島津忠良公のご神号です。
忠良公は存命中、晩年は日新斎を名乗っています。
竹田神社の場所は、もともとは島津忠良公の菩薩寺であった日新寺でした。
明治初めの廃仏毀釈により、日新寺が廃寺となったため、竹田神社を創建しています。
島津忠良公
島津忠良公は島津氏の分家、伊作家の出身でした。
長子、貴久公を宗家に送ると、貴久公は島津家15代当主となっています。
このとき、忠良公は加世田に隠居していましたが、まだ実権を握っていたといいます。
貴久公が当主となった 1550 年当時は、北薩に菱刈氏や渋谷氏がいました。
島津氏の勢力範囲は薩摩国の半分程度だったといいます。
貴久公は本格的に三州統一を目指します。
三州というのは、薩摩国、大隅国、日向国のことです。
まず、蒲生合戦や菱刈合戦で薩摩国を統一しています。
義久公は、1571年に肝付氏との抗争の最中亡くなっています。
三州統一
忠良公、義久公と勢力を拡大した島津氏ですが、道半ばでした。
しかし、三州統一の意思は、息子達に受け継がれていました。
島津宗家16第当主、島津義久公をはじめとした四兄弟は攻勢を続けます。
1574年に大隅国肝付氏、日向国伊藤氏を相次いで破り念願の三州統一を果します。
こうして島津家の基礎を形成した、忠良公と義久公は「島津中興の祖」呼ばれるようになっています。
鮫島慶彦胸像
鮫島慶彦氏は、加世田の実業家であり政治家です。
南薩鉄道の創始者で、初代社長です。
とはいっても、南薩鉄道からは無報酬で、自らつるはしをふるい線路を敷いています。
竹田神社のオオクス
ご神木のオオクスです。
日新寺の前身である、保泉寺のころからある古木です。
いにしへの道
島津忠良公が人生について詠まれた訓話が「いろは歌」 47 首となっています。
いにしへの道は、竹田神社から墓所まで続くイヌマキの並木道です。
両脇に並ぶ石碑にはひとつひとつに、いろは歌が彫られています。
墓所
本来、仏教寺院であったため、いにしえへの道沿いは墓地になっています。
逆瀬川盛綱の碑
フランスへ発注した海軍の雷砲艦「千島」は、回航中にイギリスの商船と衝突し沈没しています。
加世田出身の軍人・逆瀬川盛綱さんは、「千島」とともに殉職しています。
逆瀬川盛綱さんの追悼碑です。
尾辻佐左衛門の墓
尾辻佐左衛門は、忠良公の重臣でした。
忠良公の三男・尚久公の死にあたり、自身も殉死しています。
冨松左京の墓
冨松左京は、忠良公の家臣です。
別府城の戦いで戦死しています。
島津尚久の墓
島津尚久公は、忠良公の三男です。
三州統一を目指し、兄の貴久公らと各地を転戦しています。
三勇士の墓
飫肥の伊藤氏との戦いで、忠良公の三男・尚久公を命を持って守った3人の勇士のお墓です。
日新寺代々住持職の墓
日新寺の歴代住職のお墓です。
有馬対馬守純守の墓
忠良公の重臣・有馬対馬守純守のお墓です。
日新公園
日新公園というのは、いにしへの道を進んだ先にある公園です。
常潤院といって、忠良公が建てた学問所があった場所です。
忠良公自身の墓所になっています。
井尻神力坊の墓
神力坊は、忠良公の命で全国を見て回りました。
加世田に帰るとすでに忠良公は亡くなっており、神力坊も殉死しています。
寛庭芳宥大姉(かんていほうゆうたいし)の墓
忠良公の奥様のお墓のことです。
島津忠良の墓
そして、墓所の一番奥にあるのが、忠良公のお墓です。
関連記事
【関連記事】精矛神社 鬼島津の異名を持つ島津義弘公をまつる見どころの多い神社
【関連記事】大隅国・薩摩国神名帳令和版 鹿児島県の神社一覧表