東陵中学校は、かつて宮崎県西都市にあった公立中学校です。
山の尾根近くにあり、1975年(昭和50年)まで、通学路は山道しかありませんでした。
東米良村
東米良村というのは、かつて西都市の北西部にあった地方自治体です。
典型的な山村でしたが、一ツ瀬ダム建設で村は大きく変わります。
当時は、約4.500人の村民がいたのですが、うち496人が水没地域に住んでいました。
その他に、住宅は水没しないものの、所有する農地や山林が水没し影響を受ける人たちが、241人いました。
もともと、高度経済成長により人口流出がはじまっていた地域です。
ダムの建設は、輪をかけて多くの住民が村外へ流出するきっかけとなってしまいました。
最も影響を受けたのが、 一ツ瀬川沿いと銀鏡(しろみ)川沿いの開けた地域です。
それは、比較的裕福な住民が転居を迫られたことを意味しました。
市村合併
ダム計画以前は、地理的な条件から西都市との合併は不可能といわれていました。
ところが、ダム建設をすすめる過程で、西都市との合併協議が進みます。
1963年(昭和38年)ダム竣工により、耕作地と集落を失った東米良村は、その後も人口流出が続くことになります。
1962年(昭和37年)西都市と合併し、地方自治体としての東米良村は幕を下ろします。
また、峠の先にある中之又地区(人口 800人)は、木城町へ編入されています。
学校再編へ
東陵中学校の生徒数のピークは、1959年(昭和34年)で70名の学生が通っていました。
東陵中学校は一ツ瀬ダムより下流ですが、校区内には水没地を含んでいます。
道路改良により、西都市や宮崎市への時間的距離は短縮されました。
しかし、それが子育て世代の流出に拍車をかけます。
ダム水没と市村合併そして人口減少により、東米良村域の公立学校は統廃合が進むことになります。
1987年(昭和62年)、東陵中学校も、西都市立穂北中学校へ統合することになりました。
山の尾根にある校舎
東陵中学校は、東米良村の東部を校区としていました。
平地の少ない尾八重地区で、広い敷地を確保するために、山の尾根に校地が拓かれています。
1975年(昭和50年)に車道ができるまでは、バス停から山道が通学路になっていました。
今となっては山道は、滑落の危険があり、とてもおススメできません。
車道は現在も残っていますが、山の急斜面にあり落石があるので、車で行くのは厳しいです。
ある程度、倒木の除去はされていて、登山に比べると安全に歩くことはできます。
一番の難所です。
二輪車でも厳しいです。
現在の国道 219号線は、学校直下をくぐるトンネルの中を走っています。
手入れが行き届いた運動場
不思議なのは、運動場の手入れが行き届いていることです。
こちらは岩井谷小学校の運動場ですが、使わないグランドはこの状態が当たり前です。
車も入らないのに、東陵中学校の運動場はしっかり手を入れてあります。
中へと誘う玄関
普段は校舎内には入らないようにしていますが、東陵中学校は玄関が開けてあります。
まるで校舎内に誘われているようです。
気づいたときには、中へ入っていました。
まるで、中を見てから帰ってほしいと訴えているような気がしました。
学校当時のものが多く残り、30年以上前に廃校となったとは思えません。
当時の教科書もそのまま残っていて、荒らされた形跡もありません。
現役時の、航空写真もそのままです。
生徒向けではなく、先生向けの掲示物があるということは職員室です。
なんと、学校として最終月の行事予定がそのまま残っています。
ここには卒業生の思い出が、そのまま残っています。
いつ帰ってきてもいいように、玄関を開けてあるのだと気づきました。
いつもなら絶対に昇ろうとも思わない2階へも、誘われるように昇りました。
やっぱり、そうです。
教室さえも、最後の登校日のままです。
実際に卒業生が訪れていて、校舎もそれを待ちかねているように感じました。
入るのを拒む木造校舎
一方で木造校舎のほうも、入ろうと思えば入ることができます。
しかし、こちらは中へは誘われませんでした。
屋根が破損している部分から、倒壊がはじまっています。
しかも、校舎内に思い出の備品は残されていません。
いつものように外から見て、在りし日の姿を思い浮かべるのが木造校舎の楽しみです。
いつまでも、変わらぬ姿で卒業生を出迎えてほしいと、心から思いました。
沿革
1947年(昭和22年) | 東米良村立岩井谷小学校に併設し、東米良村立東中学校として創立 尾八重分校と中之又分校を設置 |
1948年(昭和23年) | 現在地へ移転 |
1949年(昭和24年) | 三納村立三納中学校片内分校を併合 |
1951年(昭和26年) | 東米良村立東陵中学校へ改称 |
1962年(昭和37年) | 西都市立 東陵中学校へ改称 尾八重分校が独立 |
1967年(昭和42年) | 西都市立銀鏡中学校中尾分校を併合 |
1969年(昭和41年) | 中之又分校が独立 |
1975年(昭和50年) | 車道開通 |
1977年(昭和52年) | 現校舎落成 |
1982年(昭和57年) | 西都市立尾八重中学校を併合 |
1987年(明和62年) | 西都市立穂北中学校へ統合 閉校 |
場所 宮崎県西都市尾八重527
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