内山観音堂 千手観音の申し子「千手局」の伝説

内山観音は、相良三十三観音霊場の19番札所となります。

この記事は、熊本県球磨郡あさぎり町の、内山観音について書いています。

古くからの千手観音菩薩にまつわる伝説の残る観音堂です。

有智山寺の観音堂

相良氏入国前、球磨川より北の地域は平河氏の領地でした。

1154年に地頭、平河師高が建立したのが有智山寺です。

内山観音堂正面

別名を萬福寺といっていました。

内山観音堂が建てられているのは、有智山寺の本堂のあった場所です。

ご本尊

ご本尊は千手観音菩薩でした。

内山観音堂入り口の案内板

1882年(明治15年)と1889年(明治32年)、2度にわたる火災に遭っています。

焼け焦げた千手観音像が、現在もお堂の中に安置されています。

熊本県公式観光サイト

あらたにご本尊となったのは聖観音立像です。

安産と病気にご利益がある観音さまです。

場所 熊本県球磨郡あさぎり町深田東

千手局の伝説

内山観音に伝わる伝説です。

内山観音堂ととなりの水神社

内山地区のある農民が、子供ができるようにと千手観音にお参りしました。

その甲斐あって、女の子を授かりました。

内山観音堂の鰐口

女の子は育つにつれとても美しくなっていきました。

あまりの美しさに、地区の人は千手観音の申し子とよぶようになりました。

内山観音の御朱印箱

ところが美しいあまり、薩摩(現在の鹿児島県)の木こりに連れ去られ、遊女屋に売られてしまいます。

内山観音の説明板

時が過ぎたある日、薩摩藩の藩主、島津貴久公が、

「1日に和歌百首を詠むものがあれば、側室に向えよう」

と領民に募りました。

内山観音堂の五輪塔

すると、さらわれた遊女1人だけが和歌を詠むことができたのです。

遊女は美しさと教養の見事さもあって、殿さまの側室として迎えられます。

内山観音堂の墓石群

このとき「千手の局」と名乗りました。

そして、島津貴久公の四男、家久を産んでいます。

内山観音堂となりの白山神社と水神社

この島津家久は、のちに知略武将で名をはせることになります。

内山観音堂となりの水道工事記念碑

一方、内山地区では千手の局の母が、気が狂ったように愛娘をさがしていました。

薩摩に入った母は、殿さまの腰元となって娘をさがし続けていました。

内山観音堂近くの八幡宮

3年後の春、殿さまの梅花の宴で、母娘は偶然に再開することになります。

ふたりはその時抱き合って、感涙にむせたといいます。

千手局の墓

内山観音堂の東側に、内山観音の申し子、千手局の墓があることがわかっています。

内山観音堂の五輪塔群

しかし、どの墓なのか特定するには至っていません。

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