荒尾二造というのは、東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所の略称です。
かつて熊本県荒尾市にあった、旧日本陸軍の火薬工場のことです。
火薬弾薬工場
荒尾二造の収用は、1939年(昭和14年)にはじまります。
荒尾市ならびに大牟田市には、三井三池炭鉱があったことから、重化学工場が発展していました。
原料調達が容易なうえ、鉄道輸送網も整備され、電力や水も入手しやすかったため、工場建設が計画されています。
その広さは100 万坪(330ha) といわれています。
製造された火薬や弾薬は小倉造兵廠へ送られ、砲弾や爆弾、地雷となり戦地へ送られました。
終戦時には、500棟もの建物があり、約 3,000人もの人が働く巨大工場となっていました。
米軍の空襲
1944年 (昭和19年) 戦況悪化から、米軍による日本各地へ空襲がはじまります。
各地の工廠が壊滅的被害を受けたのに対し、荒尾二造では材料庫が2棟焼けただけにとどまります。
大牟田市街や荒尾市街でも多数の死傷者がでていましたが、荒尾二造では人的被害はなかったといいます。
終戦前には大増産でフル稼働、3交代制で24時間稼働しました。
荒尾二造記念碑
荒尾市民病院前に建つ記念碑には、荒尾二造の概略図が書かれています。
市民病院からシティーモールまで、約 2.5kmにわたって工場が広がっていたことになります。
荒尾市民病院は建替え工事中でしたが、記念碑は見ることができました。
場所 熊本県荒尾市荒尾
変電所
数少ない荒尾二造の残存遺構を象徴するのが変電所跡です。
ほとんどの残存遺構が民有地になったり、荒尾高校 (現在の岱志高校)の施設に転用されたりしていて、入ることができません。
変電所跡は公有地で、柵が設けられ中に入ることはできませんが、見学は堂々とできます。
ちなみに書かれている 「284」 という数字はGHQの接収番号です。
「Trans Former Substation」 というのも、GHQ が書いたものです。
連合軍も見ただけでは、何の役割を果たす施設がわからなかったのでしょう。
場所 熊本県荒尾市増永
火薬庫
住宅街に残るのは火薬庫跡です。
変電所もそうでしたが、斜面を利用して上から見ても建物があるように見せなくするのは、空襲対策でしょうか。
確かに誘爆を起こす弾薬や火薬は、空襲の標的にしてほしくありません。
現在は、火薬庫の上は近くの住人が洗濯を干す場所になっていて、平和になったのを実感できます。
場所 熊本県荒尾市増永
弾薬庫1
弾薬庫も斜面にあり、現在は車庫として利用されたりしています。
弾薬庫の上に住宅が建っていますが、壁に書かれた接収番号が荒尾二造の施設だったことを物語ります。
なるほど、万が一爆発したとしても、他の弾薬庫に連鎖しにくい造りです。
場所 熊本県荒尾市増永
弾薬庫2
もう1ヶ所見に行った弾薬庫は、斜面にあるのは同じですが、屋根までしっかりコンクリート構造物でできています。
現在はすっかりガーデン化した民有地です。
場所 熊本県荒尾市増永
まとめ
荒尾二造は陸軍直轄の軍需工場であり、飛行場や砲台などのように、直接交戦を目的とした軍事遺構とは少し異なります。
しかし、軍事利用という目的は同じであり、稼働時期も先の大戦と一致します。
後世に語り継ぐべき戦争遺構としてまとめておきます。
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