坊泊小学校は、かつて鹿児島県南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)にあった公立小学校です。
校舎はかつての有力寺院「一乗院」の跡地になります。
如意珠山一乗院
一乗院というのは、583年に百済の僧「日羅」が仏教布教のために開山した寺院です。
坊津の港は、中世には唐国(現在の中国)や琉球国(現在の沖縄県)との一大貿易港でした。
坊津という地名も、一乗院(坊)のある港(津)からきています。
坊津には唐人が住む唐人町が形成されていました。
一乗院は貿易にも関与していたといわれ、南北朝時代には都にもその名が知られています。
そのため後奈良天皇の時代には、国家鎮護と皇室繁栄を祈願する勅願寺となっています。
江戸時代になると鎖国により、坊津港はその座を長崎港に譲っています。
しかし、薩摩国内屈指の有力寺院として歴代藩主に保護されてきました。
ところが、明治時代の廃仏毀釈により、一乗院は破壊され宝物は散逸してしまいました。
一乗院の遺構群
廃寺となった一乗院の跡には、1873年(明治6年)に坊泊小学校が開校します。
現在でも坊泊小学校の敷地内には、一条院由来の建造物が残っています。
石垣
正門前の道路との境界、そして運動場の周りには見事な石垣が組まれています。
これこそ一条院時代に組まれた石垣です。
正門へと続く石段も同様です。
石垣は、校内にも見られます。
仁王像
正門の脇にある仁王像は、1552 年に山門を建てたときに安置されたものです。
廃仏毀釈により壊されていましたが、のちに住民により復元されています。
向かって左の仁王像を「密迹(みっしゃく)」といいます。
向かって右の仁王像は「那羅延(ならえん)」といいます。
仁王像の前に並ぶ、2体の石造物も門番かと思います。
お堂の遺構
校舎の玄関前には、かつてのお堂の基礎石が並びます。
校舎の裏手に回ると、基礎部分がそのまま保存されています。
遺構の保全と見学のために、遺構上にこちらの建物が建てられています。
上人墓地
上人墓地は、坊泊小学校の敷地外になります。
校舎裏手から続く石段を登って行きます。
上人墓地というのは、一乗院の歴代住職などの墓地です。
1357年から1869年(明治2年)まで512 年にわたる歴代住職ですから、数多くのお墓があったはずです。
しかし、現存するのは19基の墓と、五輪塔や名碑となっています。
墓を見ると、井戸にフタをしたような形をしています。
これは上部が失われているのではなく、元々こんな形なのです。
地元の人は「四角墓」とよんでいます。
一乗院独特の形状です。
坊泊小学校閉校までの経緯
坊津学園小学校は、2010年(平成22年)に坊津町にあった4つの小学校を統合し、坊泊小学校跡に開校したものです。
- 坊泊小学校
- 久志小学校
- 清原小学校
- 栗野小学校
この時点では、一条院跡の校舎はまだ現役でした。
2013年(平成 25 年)に、坊津学園小学校と坊津学園中学校は、施設一体型小中一貫校として建てられた新校舎へ移転しています。
名実ともに、旧坊泊小学校が使われなくなったのは、この校舎移転の時です。
さらに、2017年(平成29年)に、坊津学園小学校と坊津学園中学校は、改正学校教育法上の義務教育学校となりました。
現在の名称は、南さつま市立坊津学園となっています。
学校遺構
校門の門柱です。
運動場から続く石段の上にあるのは・・・
校長先生の住宅です。
校舎の真ん前にあるプールです。
玄関です。
玄関前の校庭には、様々な記念碑群が残されています。
閉校記念碑です。
碑文は校歌です。
裏側に沿革と校訓が記されています。
ちょっと校章がカッコよすぎです。
校章も百周年記念碑も鶴を形どっているのは、坊津港が別名「鶴の港」とよばれていたからです。
卒業記念碑は多種多様です。
大掛かりな模型もあれば・・・・
掲示板のような実用的なものまでそろっています。
国校旗掲揚台です。
数多くの学校を見てきましたが、野口英世先生の銅像があるのは初めてです。
メインの校舎の裏手に回ります。
木造校舎の一部が残されていました。
もう1棟校舎がありました。
沿革
1873年(明治6年) | 郷校として創立 |
1914年(大正3年) | 坊泊尋常高等小学校へ改称 |
1941年(昭和16年) | 坊泊国民学校へ改称 |
1947年(昭和22年) | 西南方村立坊泊小学校へ改称 |
1953年(昭和28年) | 坊津村立坊泊小学校へ改称 |
1955年(昭和30年) | 坊津町立坊泊小学校へ改称 |
2005年(平成17年) | 南さつま市立坊泊小学校へ改称 |
2010年(平成22年) | 南さつま市立坊津学園小学校へ移行 閉校 |
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