首塚は、鹿児島県さつま町 (旧鶴田町) にある、 鶴田合戦の供養塔です。
すぐそばを流れる前川沿いに建ち、周囲は田んぼなので遠くからでも確認できます。
鶴田合戦
室町時代の薩摩国では、島津氏の支配力はまだ途上で、各地は多くの豪族が治めていました。
1401年、当時鶴田を治めていた豪族・鶴田氏は渋谷一族でした。
一方、島津家は分割統治していた、総州家と奥州家で内紛状態にありました。
鶴田氏は一族を離れ、奥州家・島津元久と手を組みます。
一方、 渋谷一族の4家 (東郷氏、祁答院氏、入来院氏、高城氏) は、総州家・島津伊久に加勢します。
人吉の相良氏や大口の(牛屎)うぐつ氏も、 澁谷四族に加勢に入り、 鶴田の田間田で10,000人を動員する大決戦が繰り広げられています。
結局、 島津元久の提案で、鶴田氏は菱刈氏を頼って鶴田を去っています。
僧侶が建てた供養塔
首塚は、 鶴田合戦で首実検のため集めた敵兵の首を供養した塔です。
首実検というのは、戦いのあと敵兵の誰を討ち取ったかを特定するために行われます。
敵兵の首は前川の河川敷でさらし首にされ、首なし遺体は大きな穴に打ち捨てられたと伝わります。
鶴田合戦のあと、戦死者を供養するために、 30人ほどの僧侶が合同で建てたのが首塚です。
怪現象
首塚の周辺では怪現象が確認され、 危険な場所といわれています。
- 周辺一帯に生首が転がっていた
- 生首を両手に持った鎧武者に追いかけられた
周辺住民の間では呪われた場所であり、近くに家を建てるものなどいないといわれてます。
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