米軍の本土進攻が予想される中、大戦中には南九州に防衛拠点として多くの基地が置かれました。
沖縄に近い鹿児島県とともに、太平洋に面する宮崎県にも多くの軍事施設がつくられています。
特攻121震洋細島基地
震洋というのは、船首に爆弾を積んで戦艦に体当たりする兵器です。
航空機による特別攻撃の、船舶版みたいな位置づけです。
本土決戦が迫る中、米軍の上陸作戦に対抗するため、九州各地に基地が置かれました。
宮崎県日向市細島には、第121震洋隊基地が置かれ、188名もの隊員が体当たり訓練をしていました。
実戦に出撃することはなく、終戦を向かえています。
場所 宮崎県日向市細島
富高海軍航空基地
富高海軍航空基地跡は、現在はすっかり日向市街になっています。
しかし、小倉ヶ浜に面する、現在の財光寺一帯が富高飛行場でした。
富高飛行場は、1929年(昭和4年)に完成しています。
当初は、常駐者のいない臨時の訓練飛行場として運用されました。
1941年(昭和16年)には、真珠湾攻撃の訓練が行われています。
開戦後は、築城(ついき)航空隊の富高分遣隊として約300名規模の練習生が訓練をしています。
1944年(昭和19年)には、富高海軍航空隊として独立、特別攻撃の訓練を行っています。
しかし、1945年(昭和20年)になると燃料・機材ともに不足し、岩国基地などに移転しました。
小倉ヶ浜
練習生が急降下爆撃訓練を行っていた、小倉ヶ浜(おくらがはま)の海岸です。
この松林の先が、富高飛行場でした。
場所 宮崎県日向市平岩
しらさぎ公園
しらさぎ公園には、富高海軍航空基地跡を記念したプロペラ展示施設があります。
プロペラは、海自の練習機 KM-2 「こまどり」のものです。
掩体壕跡
掩体壕(えんたいごう)というのは、航空機などを空襲から保護するためのコンクリート建造物です。
富高飛行場で唯一残されていた掩体壕も、道路工事のため一部を残し解体されています。
神風特別攻撃隊出撃之地碑
滑走路跡地に建てられた協和病院内には、神風特別攻撃隊出撃之地を示す石碑が建てられています。
石碑の後ろには、敵機の空襲によりできた穴が保存されています。
隊門跡
富高海軍航空隊の隊門跡地です。
すっかり日向市街地になっています。
場所 宮崎県日向市財光寺
川南陸軍挺進練習部
1941年(昭和16年)に、川南町唐瀬原地区一帯には陸軍落下傘部隊が置かれました。
南方戦線での奇襲作戦に備え、空挺落下傘部隊が訓練を行うためです。
落下傘部隊は、天孫降臨の地・日向になぞらえ、「空の神兵」とよばれていました。
川南護国神社に、空挺落下傘部隊発祥の地の記念碑があります。
唐瀬原(からせばる)の基地跡には、給水塔が残っています。
給水塔は、川南陸軍挺進練習部で使われていたものです。
場所
川南護国神社 | 宮崎県児湯郡川南町 |
唐瀬原給水塔 | 宮崎県児湯郡川南町平田 |
新田原陸軍航空基地
新田原(にゅうたばる)飛行場は、現在は航空自衛隊の基地になっています。
もともとは、1940年(昭和15年)に完成した、日本陸軍の新田原飛行場です。
ちなみに「新田」を「にゅうた」と読むのは、新富町のなまりであって、英語の「New」が語源ではありません。
なので戦前も戦中も、新田原(にゅうたばる)飛行場です。
当初は、埼玉県の熊谷陸軍飛行学校の分教場でした。
翌年には、陸軍挺進練習部が満州より移駐します。
戦中は南方戦線の訓練基地・航空輸送基地として重要な役割を果たしています。
さらに、1944年(昭和19年)には、陸軍航空通信学校の新田原教育隊が編成されています。
空港の南側には、大戦中に造られた掩体壕(えんたいごう)が残されています。
場所 宮崎県児湯郡新富町新田
大刀洗陸軍飛行学校木脇教育隊
大刀洗陸軍飛行学校木脇教育隊は、木脇村(現在の国富町)にあった航空要員の養成施設です。
1943年(昭和18年)に六野原飛行場を建設、航空機の操縦訓練が行われていました。
1945年(昭和20年)には度重なる空襲により、飛行場の機能は失われてしまいました。
現在の六野原飛行場跡地は農地に戻り、当時の面影はほぼありません。
木脇教育隊の記念碑が建てられているほか、戦時中建設されたトーチカが戦っています。
六野原のトーチカといい、大戦中に築かれたコンクリート陣地です。
場所
木脇教育隊記念碑 | 宮崎県東諸県郡国富町三名4201 |
六野原のトーチカ | 宮崎県東諸県郡国富町八代北俣 |
宮崎海軍航空基地
宮崎海軍航空基地のあった赤江飛行場は、現在は宮崎ブーゲンビリア空港になっています。
九州最大の航空基地であり、現在の宮崎ブーゲンビリア空港をしのぐ大きな飛行場がありました。
その分、多くの特攻隊員が発進した基地にもなっています。
宮崎海軍航空隊跡の石碑は、滑走路の西側です。
その奥にには、慰霊碑が建てらています。
また、空港南西の本郷地区に、いくつかの提体壕が残っています。
本郷地区の提体壕は、民間の所有地となり車庫などに利用されています。
掩体壕の大きさから考えても、赤江飛行場の規模が大きかったことがうかがえます。
赤江地区にあるコンクリート遺構は、赤江地区にも滑走路が伸びていた名残です。
弾薬庫は農地の中ですが、公道から観察することができます。
場所
宮崎特攻基地慰霊碑 | 宮崎県宮崎市本郷北方181-7 |
本郷掩体壕 | 宮崎県宮崎市本郷北方4423-102 付近に合計4ヶ所残っています |
赤江地区弾薬庫 | 宮崎県宮崎市田吉 付近にコンクリート遺構が複数残っています |
都城北飛行場
都城北飛行場は、1945年(昭和20年)に完成した陸軍の飛行場です。
特別攻撃機が配備されたのですが、出撃することなく翌月に終戦を迎えています。
現在、跡地には農地が広がります。
南側を流れる大淀川から砂利を採取し、滑走路を固めてありました。
戦後、農地に戻すために多大な苦労があったといわれています。
場所 宮崎県都城市野々美谷町
都城東飛行場
都城東飛行場は、沖水川の河原と田園にあった陸軍の飛行場です。
1944年(昭和19年)には、一式戦闘機「隼」と四式戦闘機「疾風」が配備されています。
沖縄戦における、特別攻撃隊の発進基地となりました。
都城東飛行場は、表面が荒れていたため、一見して飛行場とわからなかったといわれます。
そのため度重なる空襲を受けた都城市にあっても、終戦まで空襲に遭いませんでした。
終戦後は開拓地となり、海外常駐者や軍人が住み農業を営んでいました。
場所 宮崎県都城市都北町
都城西飛行場
都城西飛行場は、飛行場大隊が派遣され、第一線基地となることを想定された基地です。
1945 年(昭和 20 年)になると、米軍の空襲下にもかかわらず軍備が増強されています。
さらに、地下壕が掘られ司令部や重要施設は地下に移転しています。
終戦後は公団住宅が整備され、一部は陸上自衛隊の都城訓練場に転用されました。
場所 宮崎県都城市都原町29
トーチカ跡
旧陸軍、都城西飛行場だった場所の近くに、トーチカが残っています。
1945年(昭和20年)からは特別攻撃基地であり、敵機の空襲が激しかったといいます。
このトーチカからも、機関砲で応戦していました。
トーチカの上の田の神さぁは、戦後に乗せられたものです。
場所 宮崎県都城市横市町
回天栄松基地
回天というのは、魚雷を改造した1人乗りの特別攻撃兵器です。
いわば人間魚雷であり、ひとたび出撃すると乗員が帰還するような想定はされていません。
大戦終盤に戦局逆転を狙って実戦投入されています。
本土決戦が濃厚になると、米軍の上陸作戦に備え沿岸部に部隊が配備されました。
日南市南郷町の栄松基地には、7基の回天と第33 突撃隊第5回天隊が配備されています。
今は美しい姿を見せる南郷海岸では、回天の訓練が行われていました。
場所 宮崎県日南市南郷町贄波
都井岬海軍レーダー基地
都井岬の扇山には、1941年(昭和16年)当時、最新鋭の電探を配備した基地が置かれていました。
敵機の接近を探知すると、すぐさま鹿屋航空基地に報告されていました。
米軍が沖縄に上陸すると、基地周辺には、1日に200機から300機もの敵機が飛来していました。
扇山の山頂付近に、指揮所跡のコンクリート遺構が残っています。
また兵舎のあった場所の近くでは、防空壕跡を見ることができます。
場所 宮崎県串間市大納
まとめ
終戦後、基地跡には多くの遺構が残されていたのでしょうが、再開発を進める過程でその多くが取壊されています。
その中で現在も残されている遺構は、歴史遺産として貴重な存在です。
大戦の記憶を風化させないため、また将来の平和のために、これからも大切に残されることを願います。
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