火の河原分校

火の河原分校 薩摩藩の集成館事業で山間に形成された製鉄集落の学校

火の河原(ひのこら)分校は、かつて鹿児島県鹿児島市平川町にあった福平小学校の分校です。

福平小学校火の河原分校

火の河原は、薩摩藩の工業近代化政策によってできた製鉄集落です。

集成館事業

薩摩藩は江戸時代の後期になると、近代的工業化をすすめています。

火の河原

背景には、ヨーロッパ諸国がアジア各地での属国(植民地)化がありました。

火の河原

琉球(現在の沖縄県)に異国船の来航が頻繁となり、日本もターゲットになっていると危惧されていました。

福平小学校火の河原分校 入口

1851年、島津斉彬公が藩主になると、ヨーロッパ諸国と対等に戦うため、産業の近代化政策がとられます。

福平小学校火の河原分校 校門

これを、薩摩藩の集大成事業とよんでいます。

福平小学校火の河原分校 遊具

当時、炭鉱のない薩摩藩では、製鉄に木炭を使っていました。

福平小学校火の河原分校 記念碑

そして、製鉄には砂鉄の10倍もの木炭が必要だったといいます。

福平小学校火の河原分校 校庭

純粋な砂鉄採取には、きれいな水が必要で、送風には水車動力を使っていました。

火の河原

地名となっている「火の河原」は、木炭の火と製鉄した素鉄の流れる様子を指しているといわれています。

福平小学校火の河原分校 校舎

または、ひのこら川と万之瀬川の合流点の河原で製鉄をしていたからといわれます。

福平小学校火の河原分校 校舎の階段

しかも、他藩へ知られることのない秘境の地に製鉄所を選んだものと考えられます。

福平小学校火の河原分校 玄関

火の河原地区には、昔から人が住んでいたわけではありません。

福平小学校火の河原分校 校舎から見た校庭

製鉄と製炭のために、下流の川辺あたりから移住したものです。

火の河原分校とその地域 地図

砂鉄は主に喜入の前之浜から運び込まれていました。

火の河原の歴史的概要

できた鉄は、鹿児島の磯にある集成館へ運ばれていました。

校内

火の河原分校の創立は明治44年です。

南薩縦貫道

昔は秘境だったのでしょうが、今は南薩縦貫道があります。

火の河原へ渡る橋

車で行くと、川辺から苦労なくたどり着けます。

火の河原分校の記念碑

しかし、江戸時代に、砂鉄を抱えて人馬で運ぶとなると、とてつもなく重労働だったと思います。

火の河原分校 二宮金次郎の像

火の河原分校が閉校となったのは、1976年(昭和51)年のことです。

火の河原町内会掲示板とゴミ収集所

現在も集落が残っています。

福平小学校火の河原分校 石垣

山間によくみられる見事な石垣です。

福平小学校火の河原分校 校庭のイチョウ

校庭のイチョウです。

福平小学校火の河原分校 表札

校門です。

福平小学校火の河原分校 校庭

校庭です。

火の河原地区説明板

火の河原地区の説明板です。

福平小学校火の河原分校 国旗掲揚台

国旗掲揚台です。

福平小学校火の河原分校 国旗掲揚台

掲揚台は、50周年記念事業で寄贈されたものです。

福平小学校火の河原分校 閉校記念碑

閉校記念碑です。

福平小学校火の河原分校 校庭から見た校舎

校舎も残っていました。

福平小学校火の河原分校 校舎

コンクリートの建物なので、しっかり残っています。

福平小学校火の河原分校 校舎

カーテンやブラインドがないので、中も覗けそうです。

福平小学校火の河原分校 内部

分校で使われていたものが保存されています。

福平小学校火の河原分校 内部

昭和で時間が止まっているみたいです。

福平小学校火の河原分校 内部

沿革

1911年(明治44年)福平尋常小学校火の河原分教場として創立
1941年(昭和16年)福平国民学校火の河原分教場へ改称
1947年(昭和22年)谷山町立福平小学校火の河原分校へ改称
1957年(昭和32年)谷山市立福平小学校火の河原分校へ改称
1967年(昭和42年)鹿児島市立福平小学校火の河原分校へ改称
1976年(昭和51年)福平小学校へ統合、閉校

場所 鹿児島県鹿児島市平川町6221

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