知覧城は、鹿児島県南九州市知覧町にある中世の山城です。
現在もその痕跡を残す南九州の中世城の代表例として、評価の高い城跡です。
歴史
築城は平安時代の終わりと考えられています。
郡司であった知覧忠信が最初の城主でした。
その後島津氏と関係の深い、佐多氏の居城となっています。
1615年に火災に遭っています。
火災の原因はわかっていません。
以降再建はされておらず、一国一城令が出る前には廃城となっていました。
火災で建物こそ残りませんでしたが、廃城後手つかずだったことが幸いし、当時のまま姿が残りました。
薩摩藩では、一国一城令ののちは、御仮屋が郷ごとに置かれています。
知覧郷の場合も御仮屋を中心に、その城下町として武家屋敷群が建ち並んでいます。
シラス土壌
シラスが積もった土壌は透水性が高く、斜面のシラスは雨が降ると流れ出してしまいます。
しかし、地面に対し直角に切り込むと非常に強固になります。
知覧城では、この浸食によってできた谷を自然の空堀として利用しています。
本丸下の空堀は、シラスなどが堆積し埋まっていて、往時はさらに7mほど深かったといわれています。
4つのおおきな曲輪(くるわ)は、垂直に切り立ったシラス崖によって区分けされています。
曲輪というのは、城郭のことです。
知覧城の場合、石垣などはいっさいありません。
シラス崖が石垣の役割を果たしています。
虎口(こぐち)以外から侵入するには、この険しい崖を登る以外にありません。
虎口というのは、城の入り口のことです。
曲輪に登る崖は 40mもあり、虎口以外から入場するのは困難だったと思われます。
まさに自然にできた要塞です。
本丸(ほんまる)
曲輪の周りにあるのは、土塁(どるい)の遺構です。
土塁というのは、城を守るため築かれる土の壁のことです。
本丸だけあって、4つの曲輪の中で最も広くなっています。
数カ所四角い穴があるのは、建物の跡でしょうか?
蔵之城(くらんじょう)
蔵之城では、建物跡の発掘調査が行われています。
建物は室町時代に建てられたものと推定されています。
建物跡からは、中国やタイ製の陶磁器片が出土しています。
今城(いまんじょう)
名前からして、一番新しい城なのかもと思いましたが、曲輪の上は木が大きく育ち森になっています。
木材がキャンプファイヤーみたいに組んであるのは、城跡とは関係ないようです。
弓場城(ゆんばじょう)
最初案内板を見たときには、弓道場の跡と思い込み、登るかどうか迷いました。
しかし、よく見ると4つの大きな曲輪の一角で、弓場城があった場所です。
まとめ
駐車場から城郭へ行く空堀にある大きな穴は、大戦時の防空壕として掘られたものです。
やはり、シラスは垂直にさえ切り込めば、崩れる心配は少ないようです。
それぞれの曲輪は、空堀を通って互いに往き来できます。
城を他軍の攻撃から守る上では、理想的な地形だと思いました。
しかし、いったん城に火が着くと、消火隊は一斉に登れないし水も簡単に運べません。
何か連絡をしたい場合も、4つの城を上り下りするのは大変だったと思います。
4つの曲輪に登ってみて、なんとなく城を再建しなかった理由がわかったような気がしました。
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