三井三池炭鉱三川坑は、かつて福岡県大牟田市にあった三井三池炭鉱の坑口です。
昭和の主力坑で、1997年(平成9年)の閉山まで揚炭が行われていました。
最後の坑口
三川坑は、1940年 (昭和15年)に開坑した三井三池炭鉱の中では新しい坑口です。
戦中戦後の増産期に採炭量が伸び悩んだ三池炭鉱で、増産を図るべく当時の最新技術が取り入れられました。
その分、日本遺産「明治日本の産業革命遺産」には選ばれていません。
しかし、三池炭鉱で最後の坑口であり、生々しさが残っています。
正門
三川坑跡は見学することができます。
見学の際は、正門から入場します。
見学曜日 | 土・日・祝日 |
時間 | 4月~11月 9:30~17:00 (最終入場 16:30) 12月~3月 9:30~16:30 (最終入場 16:00) |
見学料 | 無料 |
ホームページ | 大牟田の近代化産業遺産 |
炭坑電車
三池炭鉱専用鉄道を走っていた電気機関車が展示されています。
もともとは各坑から石炭を三池港まで運んでいましたが、最盛期には通勤のための旅客輸送も行われました。
三池鉄道というのは、福岡県大牟田市と熊本県荒尾市で運行されていた、 三池炭鉱専用鉄道の通称です。 三池炭鉱とともに成長し、そして縮小しています。 専用鉄道 三池炭鉱での軌道[…]
日本庭園
三川坑は、戦後復興期には全国でも屈指の主力坑となっていて、 1949年(昭和24年)には天皇陛下が入坑されています。
天皇陛下が炭鉱へ入坑されたのは、全国でも唯一三川坑だけです。
斜坑横の日本庭園は、天皇陛下の入坑に合わせて造られたものです。
入昇坑口
作業員は正面の神棚を拝み、安全を祈って坑口に降りていました。
入口に置いてあるのは、作業員が着けていた装備です。
第二斜坑
第二斜坑の坑口が閉山時のまま残されています。
作業員は人車に乗り、有明海の海面下の採炭場所まで斜坑を降りていました。
繰込場
繰込場 (くりこみば) といのは、作業員が入坑するまで待っていた場所です。
こちらは、繰込場前の渡り廊下で入坑を待つ社員です。
木造建物で崩壊が進んでいます。
人車点検場
人車 (作業員が乗るトロッコ)の点検をしていた建物です。
山の神神社
ご祭神は大山祇大神(おおやまつみのかみ)。
坑内の安全を見守るように建っています。
三川坑炭塵爆発慰霊碑
慰霊碑が建てられているのは、まさに炭じん爆発事故のあった、第一斜坑の坑口上です。
コンプレッサー室
第一線の現場に送る圧縮空気を作っていた建物です。
ほぼ倒壊していますが、タンクはしっかりしています。
掘削する機器の動力は、圧縮空気でした。
第一巻揚げ室
第一斜坑の人車 (トロッコ)の昇降を操作していた建物です。
木造時代のものは炭塵爆発の風圧で倒壊したため、鉄骨造のものに建替えられています。
第二巻揚げ室
第二斜坑の人車の昇降を操作していた木造建物です。
巻揚げ機も手入れされていて、健在です。
三井倶楽部
三井倶楽部というのは、三川坑ができる前、1908年 (明治41年)の三池港開港に合わせて建てられた洋館です。
三池港に入港する船員の慰安・休憩所で、天皇陛下ご入坑のさいもここで休まれています。
現在は、結婚式場やレストランとして使われています。
團琢磨之像
團琢磨 (1858-1932) は、福岡県出身で明治政府の官僚でした。
1888年(明治21年) 国営だった三池炭鉱が、三井に売却されたとき三井に移っています。
採炭技術の近代化、三池鉄道の敷設、三池港の築港を行い、三池炭鉱を三井のドル箱にした人物です。
三池争議
三池争議というのは、1959年(昭和34年)に起こった、大規模な労使間の争議です。
1953年(昭和28年) のストライキで、労働組合(労組)は指名解雇撤回を勝ち取っていました。
これにより労組内の労使協調派は力を失い、一部の活動家が影響力を持つようになります。
当時は、エネルギーが石炭から石油へ変化し、石炭需要が落ち込んだ時期でした。
会社側は、6000 人規模の人員削減案を発表し、最終的に退職勧告に応じない 1278 人に指名解雇通告をします。
これが発端となり、労組側は無期限ストに突入しています。
会社側の再建の意志は固く、組合員の坑内立入禁止で対抗しています。
会社側には財界が全面支援した一方、労組側は総評が全面支援したため 「総資本対総労働の対決」 とよばれています。
しかし、ストライキの長期化と会社側の工作で、組合は分裂することになります。
さらに、暴力団員に組合員が殺害され、三川坑へ入る新労組組合員と阻止する第一労組組合員が争い負傷者が出るなど混沌として行きます。
このころになると、過激な左翼団体も加わり、第一労組の活動は過激化していきます。
ホッパー占拠では警官隊ともみあい、逮捕者が連行された警察署を包囲するなどしました。
中央委員会のあっせん案を双方が受諾したことで、争議は収拾しています。
炭じん爆発事故
三井三池炭鉱炭じん爆発事故は、1963年(昭和38年) 11月9日に発生した、戦後最悪の炭鉱事故といわれています。
石炭を満載したトロッコの連結が外れ、火花を散らしながら脱線しています。
さらに坑内にまん延した炭じんに引火したことで、第一斜坑の坑口から約 1600m地点で大爆発が起きました。
坑内では約1400 人が作業中でしたが、死者458人、救出された 940人のうち 839 人が一酸化炭素中毒となりました。
奇しくも同日、国鉄東海道本線の鶴見事故で161名が亡くなっていて、「魔の土曜日」 とよばれるようになっています。
関連記事
【関連記事】三井三池炭鉱まとめ 観光で世界遺産見学をするための全体像をつかむ記事
【関連記事】三池港 100年先を見据え干潟に築かれた三池炭鉱の重要インフラ
【関連記事】三池鉄道 最盛期には旅客輸送もした三池炭鉱専用鉄道の線路跡
【関連記事】三井三池炭鉱万田坑 当時の姿を残す明治から昭和初期の主力坑
【関連記事】三池炭鉱宮原坑 ガイドさんが案内する第二竪坑櫓がシンボルの世界遺産
【関連記事】三池炭鉱勝立坑 湧水を克服した明治時代3番目の主力坑口
【関連記事】宮浦石炭記念公園 三池炭鉱宮浦坑の遺構をもとに整備された公園
【関連記事】槙峰鉱山 にわか廃鉱マニアとして訪れた銅山の感慨深い遺構群
【関連記事】永野金山 薩摩藩が財源としていた日本有数の金山遺構群
【関連記事】錫山鉱山 日本屈指の規模を誇った薩摩藩直営錫鉱山