南洲神社 西郷どんと薩軍戦没者6800柱をまつる神社

南洲神社は、鹿児島市上竜尾町にある神社です。薩摩藩士西郷隆盛ゆかりの神社となります。近世の鹿児島の歴史を振り返るとき、必ず語られる西郷隆盛の親しみを込めた愛称は「西郷殿(せごどん)」ですが、敬意を表すときは「南洲翁(なんしゅうおう)」とよばれていました。西南戦争において薩郡を率いた南洲翁と、薩軍戦没者の墓地が南洲墓地であり、その霊をまっつたのが南洲神社です。

寄田小学校 旧川内市南西端にあった旧高江村の学校

寄田小学校は、かつて薩摩川内市寄田町にあった市立小学校です。寄田町は川内駅から南西へ約16km離れていて、自然豊かなところです。鹿児島県道 43 号川内串木野線沿いにある校舎には、最盛期300名をこえる生徒が通っていました。2000年代に入ってからは、全校生徒は10名程度で推移するようになっていました。

小戸神社 宮崎市内を流れる大淀川沿いに鎮座

小戸(おど)神社は、宮崎市鶴島にある神社です。古来から宮崎市街と大淀川の河口を見守っています。小戸という社号は、主祭神の伊弉諾大神(いざなぎおおかみ)が禊(みぞぎ)をした、日向の橘の小戸にちなんでいます。宮崎市街地からほど近く、大淀川には親水公園もあるため、市民が親しみやすい感じがしました。

高免小学校 桜島と共存する島内の小学校

高免(こうめん)小学校は、鹿児島市高免町にある小学校です。現在は休校中です。高免町(こうめんちょう)は、有名な黒神埋没鳥居がある桜島北東部の町です。現在休校中の高免小学校の校区の児童は、黒神小学校へ通っています。

鹿児島五社 薩摩城下の災いを防いだ鹿児島五社参り

鹿児島五社というのは、鹿児島市の上町(かんまち)地区にある、5つの神社のことです。薩摩藩主島津家ではじまった五社参りは、領主一族と家臣の風習でしたが、次第に一般庶民にも広がったものです。明治時代以降は市街が南へ広がり車社会になったことで、薩摩藩時代の社勢はありませんが、5社ともに現存し往時の名残を伝えています。

滄浪小学校 川内川に流れる水のように清く正しく生きる

滄浪(そうろう)小学校は、かつて鹿児島県薩摩川内市にあった公立小学校です。校名の滄浪というのは、川内川を中国の河川「滄浪」に見立ててつけられています。校区の地名を冠するのが一般的な公立小学校ではレアケースです。しかし、地元の方はその深い意味を理解していたからこそ使い続けていました。

平松神社 島津歳久公をしのぶ心岳寺参りと美しい錦江湾の風景

平松神社は、鹿児島市吉野町にある神社です。社地は心岳寺という寺院の跡になります。心岳寺は、島津歳久公の菩薩寺として、兄の島津義久公が建てたものです。以降、島津歳久公の命日、旧暦の7月18日とその前日には多くの拝観者が訪れることになります。これを、心岳寺参りといいます。心岳寺は廃寺となったのち平松神社となりましたが、心岳寺参りは続いていました。

協和中学校 桜島のお膝元・垂水市協和地区にあった市立中学校

協和中学校は、かつて鹿児島県垂水市にあった公立中学校です。2010年(平成22年)に、垂水中央中学校へ統合し閉校となっています。垂水市の協和地区というのは、明治以前の中俣村と海潟(かいがた)村のことになります。住所表記には協和という地名は使われませんが、明治時代から、両方を合わせて協和地区とよぶのが定着していました。

照島神社 数多くの伝説が残る観光地照島にある神社

照島神社は、鹿児島県いちき串木野市の照島にある神社です。歴史的な逸話の多い島で、景観地でもあるため、ちょっとした観光地になっています。さらに、物産館「照島海の駅」と「海の家食堂」でまぐろの町いちき串木野市を堪能することができます。照島は、日本三大砂丘、吹上浜の最北端にある島です。

北俣小学校 宮崎県国富町の旧八代町域3校を統合し閉校

北俣小学校は、かつて宮崎県東諸県郡国富町にあった公立小学校です。2009年(平成21年)に、国富町立八代小学校へ深年小学校とともに統合し閉校しています。国富町は江戸時代には3藩が治めた異色の歴史があります。北俣小学校のあった旧八代村は、薩摩藩の高岡外城でした。北俣小学校は、旧八代村域の一村一校として創立した八代小学校から、分割独立した学校でした。

陽成小学校 センダンの大木が目印・旧高城町の行政の中心地にあった学校

陽成(ようぜい)小学校は、かつて薩摩川内市陽成町にあった公立小学校です。シンボルツリーはセンダンの木になります。陽成小学校の校区は薩摩藩時代、高城郷(たきごう)麦之裏村といっていました。1889年(明治22年)の町村制施行時に、高城郷の区域がそのまま高城村になっています。高城村役場が置かれたのが麦之尾でした。