福山小学校は、霧島市福山町福山にある現役の公立小学校です。
この記事は、移転前の旧福山小学校について書いています。
福山郷地頭仮屋跡
移転前の福山小学校のあった場所は、かつて福山郷の地頭仮屋でした。
江戸時代の一国一城令の後も、外城制をしいた薩摩藩は、城の代わりに「地頭仮屋」を置いています。
この「地頭仮屋」を中心として、郷ごとにミニ城下町が形成されています。
福山は港町として栄え、江戸時代には大隅国の物流の要衝でした。
地頭仮屋の石積みは、肥後国(現在の熊本県)の名石工・岩永三五郎を呼び寄せて築いたものといわれています。
明治時代も繁栄した港町・福山ですが、桜島の大正噴火で状況が変わります。
桜島が大隅半島と陸続きとなったことで、物資の流れも変わってしまったのです。
孝子・仙五郎石碑というのは、銘文が達筆すぎて何かよくわかりませんでした。
しかし、御仮屋時代からあった石碑であることは想像がつきました。
校内
校舎の一部と、体育館が残っています。
残してある校舎は、校長室や保健室、事務室と書いてあるので管理棟だったのだと思います。
体育館は学校施設としての役目は終えていますが、現在も現役で使われているようです。
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注目したのは、百周年記念碑のところにある掲示板の数々です。
歴史的建造物のあったことの説明です。
案内に沿って山に入ってみます。
校舎の山側には、かつて大隅線が走っていました。
大隅線の高架をくぐります。
奥にあるのは、古寺の跡です。
仁田尾城の攻防
平安時代の終わりごろ、源頼政の孫である宗綱、広綱、有綱の 3 兄弟が福山に配されました。
この源氏3兄弟が築城したのが仁田尾城です。
子孫は廻氏を名乗ったため、別名「廻城」ともよばれています。
1561年に、廻氏第 15 第久元が盲目となり、子の頼員が病弱だったのに乗じて、肝付兼継が仁田尾城を奪いました。
薩摩藩領主島津貴久は、廻氏を救援すべく、弟の島津忠将(ただまさ)を仁田尾城に送ります。
忠将は、自陣から突出してしまった味方を救おうとしたところ、肝付氏の攻撃を受け、戦死しています。
弟を討たれた貴久は、自ら出陣し仁田尾城を奪還することになります。
大安寺
もともとは高山(現在の肝付町)にあったお寺です。
第二代和尚が、福山に寺を移していました。
島津忠将の死後、忠将の法号「大安」を寺号とし、永泰山大安寺と改めています。
島津忠将のほか、戦死した従臣 57 名の位牌も収め、冥福を祈るところとしました。
島津忠将の菩薩寺ということです。
1797 年には大火で焼失してしまいますが、その後再建されています。
しかし、明治時代はじめの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動きにより、廃寺となっています。
大安寺の仁王像
大安寺は、廃寺となった後 100年以上経過しています。
仁王像も原形をとどめていませんが、よく見てみると仁王像だったのがわかります。
廃寺後、保存するような動きがあったわけではないようです。
大安寺の五輪塔
五輪塔は、藩政時代の第12代福山郷地頭「種子島十佐衛門」の供養塔です。
1714 年から 1726年の間、第 12代福山郷の地頭であった十佐衛門は、郷内の掌握に努め、藩政に大きく貢献された人物とされています。
五輪塔には十座衛門の若い時の名前「対馬丸」の刻銘があるといいます。
卵塔碑群
大安寺の卵塔碑群は、歴代住職のお墓です。
福山へ寺を移した第2代から、1822 年の第 18 代和尚までの墓石が並んでいます。
1975年(昭和 50 年)に、当時の福山町が文化財に指定しています。
福山幼稚園
校庭の最南端にある建物は、かつての福山幼稚園です。
幼稚園は閉園されているようです。
江戸時代であれば、御仮屋となりの一等地です。
遊具に乗っているのは、雑草でした。
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