老神神社 相良氏の氏神【おいかみさん】と胸川越しの人吉城大手門
老神神社は人吉城のお堀のすぐ外側にあります。相良氏が氏神として篤く保護した神社です。地元の人は「おいかみさん」と呼び親しんでいます。青井阿蘇神社ほど規模は大きくなく、派手さもありませんが、人吉城大手門のながめと一緒に見ておいて損はないと思います。
老神神社は人吉城のお堀のすぐ外側にあります。相良氏が氏神として篤く保護した神社です。地元の人は「おいかみさん」と呼び親しんでいます。青井阿蘇神社ほど規模は大きくなく、派手さもありませんが、人吉城大手門のながめと一緒に見ておいて損はないと思います。
木本神宮は相良長毎(ながつね)が、市房山神宮参詣が2度にわたり叶わなかったため、岩城跡に創建しました。相良氏が人吉球磨地域に入国する以前、現在の錦町木上地区一帯は、豪族平河氏が本拠地として、勢力を誇っていました。平河氏が居城としていたのが岩城です。
百太郎溝というのは、熊本県球磨郡南部を水田化するのに必要だった農業用かんがい用水路のことです。100 年を越える大工事の末、総延長19㎞の百田溝ができあがっています。百太郎という人物の犠牲により、難工事が完遂できたという伝説が残ります。
幸野溝は幸野ダムより取水し、熊本県球磨郡南部をかんがいする用水路です。百太郎溝以南の農地に水を送っています。幸野溝と百太郎溝は、人吉球磨地域に多大な功績を残し、独自文化の形成に寄与しました。完成から300年が経った現在も現役の用水路として農地を潤しています。
太田家住宅とは、熊本県人吉球磨の住宅建築を象徴する建物として保存展示されている古民家です。人吉藩の住宅制限下で、住宅の面積を拡大するためには、鉤型に棟を伸ばす方法がとられていたといいます。太田家住宅は、人吉球磨地方の鉤屋の民家を代表する建物と評価されています。
雨宮神社は、熊本県球磨郡相良村にある、雨乞いで有名な神社です。川辺川をさかのぼると、浸食によってできた「雨宮の森」という小山があります。最近は「トトロの森」とよぶ人もいます。夏目友人帳のファンにとっても有名なスポットです。
タイ捨流(しゃりゅう)剣法とは、人吉藩相良氏の家臣、丸目長恵(ながよし)通称、丸目蔵人佐(くらんどのすけ)によって創始された兵法です。タイ捨流の「タイ」というのは、東南アジアの国「タイ」とは違います。漢字で書くと「体・待・対・太」が当てはまります。
熊本県の球磨川と川辺川の合流点、球磨川第四橋梁の少し上流に井沢熊野座神社が鎮座します。地元の人は「権現(ごんげん)さん」と呼び親しんでいます。井沢熊野座神社は別名、「井沢権現社」ともいいます。1542年に再建された中央殿は、神社社殿としては人吉球磨地域で最古の建物です。
市房山神宮は市房山をご神体として、山中の本宮、山麓の中宮(一宮神社)、湯前町の下宮(里宮神社)の三社で構成されています。一宮神宮は市房山神宮の中宮という位置づけになります。「お嶽さん参り」のコースのひとつで、市房山神宮を目指す藩主や領民の、唯一の休憩場所として利用されていました。
人吉球磨の最高峰が市房山になります。古来から人吉球磨の人々は市房山を信仰の対象としてきました。市房山のことを「お嶽さん」と呼び親しんでいました。市房山神宮が建立されたのは平安時代にさかのぼります。 市房山の中腹に社殿が建立されたのは807年のことでした。
神瀬住吉神社は、航海や交通安全の神として、球磨川を行き来する藩主や船頭たちの信仰を集めた神社です。道路や橋が整備されていない時代は、荷物は球磨川を利用し舟で運び、対岸には船で渡っていました。灯台型の灯篭がこの表れであるといいます。
鎌倉時代、荒田大王神社のある錦町木上地区は平河氏の本拠地でした。平河氏は人吉の地頭として入国した相良氏に「血敷原の戦い」で敗れました。相良長頼は、平河氏の怨霊を鎮めるため、荒田大王神社を造りました。平河氏の遺徳を偲ぶ領民からは、「大王さん」とよばれ祀られたといいます。