特攻百二十一震洋隊細島基地跡は、宮崎県日向市にある戦争遺構です。
全国にあった特別攻撃艇「震洋」の出撃基地のひとつとなります。
震洋とは?
震洋というのは、艦首に 250 t の炸薬を載せて、敵艦に高速で体当たりするための艦艇です。
陸軍の特別攻撃隊に先駆けて、準備が進められていたといわれます。
艦名からは、りっぱな軍艦を想像されるかもしれません。
しかし、艇長6.5mほどのベニア造りのモーターボートでした。
戦闘機とくらべると、構造が簡単で大量生産されています。
秘匿名称は「㊃金物(まるよんかなもの)」でした。
震洋は、フィリピンや沖縄で実践投入されています。
しかし、部隊ごと全滅してしまうため、正確な戦果はよくわかっていません。
本土決戦になると、入江の奥の洞窟から出撃し、敵艦艇を攻撃する作戦でした。
細島基地
細島基地は、1945年(昭和20年)に、震洋出撃基地として設営されています。
25 隻の震洋が配備されていました。
搭乗員54名のほか、総員188名の部隊でした。
基地は終戦後、進駐軍により破壊されてしまいました。
硬い岩盤を掘削した、艇格納庫の跡が残っています。
隊員たちは、この基地で日夜訓練をし、出撃にそなえていました。
百二十一震洋隊には出撃命令が下されないまま終戦を迎えています。
場所 宮崎県日向市細島
黒田の家臣の墓
細島基地の沖にある島は、古嶋(こしま)とよばれています。
古嶋にあるのは、1862年に京都でおきた寺田屋事件の当事者、黒田藩士ら3名のお墓です。
寺田屋というのは、薩摩藩の定宿でした。
寺田屋事件というのは、寺田屋で薩摩藩主・島津久光が薩摩藩の尊皇派を排除した事件です。
尊皇派の黒田藩士ら3名は、細島港を経て鹿児島に護送される途中でした。
ところが、領主の密命を受けた薩摩藩士により、移送中の3名は惨殺されてしまいました。
古嶋で遺体が発見された時には、住民はそのような経緯を知るはずもありません。
住民は墓碑を立て3名を手厚く弔いました。
砂州
黒田の家臣のある古嶋は、砂州になっています。
満潮時には島であるものの、干潮時は陸続きになります。
歩いて渡ることができます。
上陸してみます。
まずは海賀宮門辞世の句碑がありました。
すぐそこに石碑が見えています。
山形有朋元帥による「赤心報告の碑」でした。
3士のお墓、正確には黒田藩士だけではありません。
筑前秋月黒田藩(現在の福岡県朝倉市) | 海浦宮門直求(かいかくもんなおもと) |
肥前藩(現在の佐賀県) | 中村主計重義(なかむらかずえしげよし) |
但馬藩(現在の兵庫県北部) | 千葉郁太郎徳胤(ちばいくたろうとくたね) |
3士を発見したときに身元がわかるものは、腹巻の「黒田家臣」の文字だけでした。
そのため「黒田の家臣」とよばれるようになっています。
あと、3士の遺体の発見者で、お墓を建て守り続けてきた黒木庄八翁のことを忘れてはいけません。
黒木庄八翁の意思は、以後160年にわたり引き継がれています。
今日も3士のお墓には花が添えられ、手厚く供養されていることがわかります。
場所 宮崎県日向市細島
御鉾ヶ浦公園
御鉾ヶ浦(みほこがうら)公園は、細島基地と黒田の家臣近くに整備された公園です。
御鉾ヶ浦を見渡せます。
場所 宮崎県日向市細島92
御鉾ヶ浦海水浴場
公園に隣接する海水浴場です。
場所 宮崎県日向市細島32
御鉾ヶ浦公園キャンプ場
日向市営の無料キャンプ場です。
芝生のフリーサイトで、トイレと炊事棟完備です。
駐車場もサイトも広々としています。
ただし、荷物は階段で運ぶことになります。
利用する場合、市役所へ申請が必要です。
申請先 | 日向市市街地整備課 公園街路係 |
申請時間 | 平日 8:30~17:15 |
電話番号 | 0982-52-2111 |
場所 宮崎県日向市細島
関連記事
【関連記事】馬ヶ背 恋する灯台と柱状節理を擁する日向岬の絶景スポット
【関連記事】米ノ山展望台 日向市街と細島港そして日向灘をながめるビュースポット
【関連記事】日向市駅 駅舎のデザインと駅周辺の景観が美しくマッチング
【関連記事】美々津 神武天皇お舟出の地と伝統的建造物の残る町は日本海軍発祥の地
【関連記事】リニア宮崎実験線 九州を走っていた夢の超高速鉄道