宿利原中学校 カラフルな案内板とシンボルツリーのイチョウ
宿利原中学校は、かつて鹿児島県肝属郡錦江町にあった公立中学校です。校後は、宿利原地域コミュニティーセンターとして利用されています。カラフルなアルファベットの案内板が目を引くので、前を通るとのぞいてみたくなります。
宿利原中学校は、かつて鹿児島県肝属郡錦江町にあった公立中学校です。校後は、宿利原地域コミュニティーセンターとして利用されています。カラフルなアルファベットの案内板が目を引くので、前を通るとのぞいてみたくなります。
高松ダムは、鹿児島県阿久根市にある防災ダムです。高松川の洪水調整のみを目的としたダムとなります。通常時は堤体の最下部にある常用洪水吐は開放されていて、川をせき止めません。そのため流水型ダムとか穴あきダムとよばれるタイプのダムです。
大隅五社というのは、大隅国を代表する神社として領民が崇拝してた神社です。古代の天孫伝説に中世以降の伝説が重なり、大隅国を代表する五社とされています。
加治木春日神社は、鹿児島県姶良市加治木町にある神社です。創建は島津氏の下行以前、平安時代のことです。都から加治木に赴任した藤原氏が、大和国(現在の奈良県)の春日大社を勧請したのものです。のちに島津氏も篤く崇拝した加治木の総社です。
牛根中学校は、かつて鹿児島県垂水市にあった公立中学校です。愛称は「牛中(うしちゅう)」でした。牛根中学校があったのは、旧牛根村の二川地区です。3階建て校舎と大きな体育館が、往時の生徒数の多さを物語っています。
冠嶽神社は、鹿児島県いちき串木野市にある神社です。一帯は冠岳花川砂防公園として整備されています。公園内には、始皇帝に仕えた秦の方士、徐福さまの伝説の地にちなみ、中国庭園が広がっています。
山ケ野金山というのは、かつて鹿児島県霧島市横川町にあった金鉱山です。なんと、鎌倉時代から金が採れていた日本有数の金山でした。金山で栄えた山には多くの人が集まり町ができました。金山街は、閉山した現在も山ケ野集落として残っており、多くの遺構群を見ることができます。
剱(つるぎ)神社は、鹿児島県県霧島市国分敷根にある神社です。社名は、主祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)の剱に由来します。熊襲を偵察中の日本武尊が、剱を抱きながら野営をしていたのが現社地の北東にある、剣岩とされています。
冠岳小学校は、かつて鹿児島県いちき串木野市にあった公立小学校です。名称の通り、冠岳山麓に位置する学校でした。冠岳はかなり古い時代から、山岳信仰の対象となっていました。冠岳小学校の石垣や校門そしてソテツに、その歴史ある雰囲気がみられます。
市成小学校は、かつて鹿児島県鹿屋市輝北町にあった公立小学校です。再編前30校以上あった鹿屋市立小学校のなかでも、最北に位置する小学校でした。旧市成村の西部が、市成小学校の校区となります。多くの施設がそのまま残り、学校の面影を偲ばせます。
大戦も戦局が悪化してくると、南方への前線となる鹿児島には数多くの軍事基地が置かれました。沖縄作戦の特別攻撃実施と、米軍の本土上陸作戦に対抗するためです。九州南部には数多くの戦争遺構が残りますが、本記事では、薩摩半島に残る遺構をまとめています。
聖ヶ浦(ひじりがうら)ポケットパークは、鹿児島県南九州市知覧町にある海沿いの公園です。公園にあるのは、旧日本海軍の特攻艇「震洋」のモニュメントです。聖ヶ浦の海岸には、第125震洋隊基地が置かれていたためです。米軍上陸に備えて180名もの隊員が配備される、海からの特別攻撃基地でした。幸い一度も実践で出撃することなく、終戦を迎えています。