人吉球磨三十三観音 Web上で巡礼できるようにしてみた
相良三十三観音めぐりの札所となる観音さまは、彼岸時期にしか一斉開帳されません。秋は1週間あるのですが、春は1日だけの一斉開帳です。観音様にじかにお参りはできないかもしれませんが、心を向ければ遠く離れていても観音様は見守ってくださると思います。
相良三十三観音霊場の札所の記事になります。 記事は順不同ですので、順番に見たい方はまとめ記事をごらんください。
相良三十三観音めぐりの札所となる観音さまは、彼岸時期にしか一斉開帳されません。秋は1週間あるのですが、春は1日だけの一斉開帳です。観音様にじかにお参りはできないかもしれませんが、心を向ければ遠く離れていても観音様は見守ってくださると思います。
普門寺観音は、相良三十三観音霊場の25番札所です。市房山神宮と関係が深く、「化け猫騒動」の発端となった普門寺の観音堂です。市房山神宮の遥拝所(ようはしょ)としての機能も有していましたが、1883年に焼失しました。里宮神社建立経緯にも関わります。
龍泉寺観音は、相良三十三観音霊場の24番札所となります。龍泉寺は曹洞宗のお寺で、永国寺の末寺です。現在、龍泉寺の境内にある観音堂は、時代とともに、複数回移されています。現在は、100年以上、龍泉寺の境内にありますので、やっと落ち着いたのかもしれません。
相良三十三観音巡りは、江戸時代に人吉藩で始まった巡礼です。時代による変化がありながらも、今日まで受け継がれています。三十三観音霊場ながらも35の札所があります。記事がさがしやすいようにまとめておきます。最近は観光で巡礼する方も多いと聞きます。参考になれば幸いです。
上里の町観音は、相良三十三観音霊場の26番札所となります。通称「町の観音さん」で、その名の通り湯前町上里の町の中に祀られます。建築に関わった大工さんや、鰐口の寄進者から、西米良村の人々の信仰も集めていたことが伺われます。
永田観音は、相良三十三観音霊場の11番札所です。もともとは、鬼木町芦原の施無畏院(せむいいん)の観音さまでした。現在の聖泉院に移されたのは明治になってからです。今でも「芦原ん観音さん」とよぶ人もいます。公式にも永田観音と芦原観音が併記されています。
清水(きよみず)観音は、相良三十三観音霊場の1番札所です。観音堂は願成寺のすぐそばになります。1603年、相良家20代藩主長毎(ながつね)の立願により、京都清水寺の清水観音を勧請したものです。ご本尊は、永い間人吉城内にありました。明治になってから願成寺に移されたものです。
瀬原観音は、相良三十三観音霊場の10番札所となります。旧来からの人吉市街にあり、現在も観光ホテルが並ぶ、人吉の商業地域の代表スポットにあります。境内の「ガランさま」と呼ばれる石塔は、耳の病気や、咳にご利益があるといわれています。
村山観音は、相良三十三観音霊場の9番札所です。期間限定開帳の観音さまが多い中、常時開帳してある貴重な観音さまです。村山観音は、元をたどると、観琳寺というお寺が由来です。現在は歓蓮寺になっていて、周辺は村山台地の一大聖域です。
中尾観音は、相良三十三観音霊場の2番札所です。相良家第21代領主、頼寛(よりひろ)の霊を弔うため祀られた観音さまです。一帯の墓地の中には「源兵衛さんのお墓」があり、受験シーズンのは合格祈願のお参りが増えます。お参りにはサトイモと焼酎を備えるのがならわしとなっています。
観音寺観音は相良三十三観音霊場の13番札所となります。観音寺は相良前頼が、京都の東福寺の僧侶を招へいして建立したのがはじまりです。建立時の経緯から、相良氏との関係が強いお寺でした。その歴史の中で、3度も火災に遭っていますが、その度に再興されています。
湯の元観音は相良三十三観音霊場の8番札所となります。この観音さまは、人吉の古くからの泉源の近くにまつられているため、「湯の元観音」とよばれるようになりました。ここらあたりが、人吉温泉発祥の地といわれており、今でも温泉旅館が数軒あります。