日本が戦争を体験してから、80年近く経とうとしています。
戦時下を生で体験した方にとっても遠い過去の記憶となり、またその人数も少なくなってきています。
そんななか、戦争遺構が見直されてきたのは、その歴史を見たままに後世に伝える物証だからです。
熊本県
荒尾二造というのは、東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所の略称です。
旧日本陸軍の巨大な火薬工場で、荒尾市街となった現在もその遺構を確認することができます。
飛行場や砲台などのように、直接交戦を目的とした軍事遺構とは少し異なりますが、戦争遺構として並べておきます。
菊池飛行場は、熊本県最大規模の陸軍飛行場でした。
終戦を迎えた後は、引揚者や復員兵らの開拓地として払い下げられ、現在は住宅地になっています。
しかし、現在も飛行場の遺構として残る構造物を確認することができます。
陸上自衛隊の黒石原演習場あたりは、明治時代からの陸軍の演習場でした。
戦中には飛行場や傷痍軍人療養所などが集積する、一大軍事施設となっています。
奉安殿(ほうあんでん)跡が唯一、見学可能な遺構です。
隈庄(くまのしょう)飛行場というのは、熊本県杉上村(現在の熊本市南区)にあった、旧日本陸軍の飛行場です。
遺構として残っているのは弾薬庫だけになっていますが、大戦終盤には四式重爆撃機「飛龍」で編成された第110戦隊の基地として使われていました。
熊本県南部には、開戦時こそ軍事基地はありませんでした。
しかし、長引く戦争は消耗戦を呈し、航空要員の増員を迫られています。
さらに、米軍の日本本土上陸作戦に備え、艦砲射撃の届かない内陸部に海軍航空基地がつくられました。
それが、人吉海軍航空基地です。
脚光を浴びはじめたのはつい最近です。
宮崎県
宮崎県には、実戦部隊を養成するためにつくられた施設が多くあります。
真珠湾攻撃の急降下訓練や、南方戦線に展開する落下傘部隊の訓練は、宮崎県の基地で行われています。
現在の宮崎ブーゲンビリア空港は、終戦までは九州最大の航空基地でした。
いずれも積極的に観光資源として使われていません。
しかし、当時をしのばせるには十分な保存状態で保護されています。
鹿児島県
特別攻撃がはじまると、鹿児島県の各航空基地は、その発進基地として使われるようになります。
その壮絶な歴史を語り継ぐうえで、視覚的に訴えるのが遺構や遺品です。
特に知覧特攻基地は、いちはやく遺品の集約と保護に取り組んだため、全国に知られる観光資源となりました。
仮に日本が降伏しなかった場合、宮崎海岸(宮崎)、志布志湾および吹上浜(鹿児島)の3地点から上陸作戦が展開されるはずでした。
そのXデーは、1945年(昭和20年)11月1日に迫っていました。
日本軍も当然、本土決戦を覚悟しており、九州南部への米軍上陸に備えていました。
鹿児島県の戦争遺構は、終戦期につくられたものが多いのが特徴です。
まとめ
すべての戦争遺構が同様に整備されているわけではありません。
中には離合できない道しかないスポットや、駐車場から数十分歩く必要があるところもあります。
多くの方が訪れることで整備が進み、後世に語り継がれていくことを望みます。
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