永野金山は、かつて鹿児島県薩摩郡さつま町にあった金鉱山です。
鎌倉時代のものと思われる坑道跡もあり、長い間採鉱されていました。
1600年代のゴールドラッシュ
鉱脈の発見は、1640年にさかのぼります。
採鉱がはじまると、金山周辺には 12,000人もの人たちが集まります。
金山集落形成され、商業施設や飲食店が軒を連ねました。
1751年から1829年にかけては、佐渡金山を上回る日本最大の産出量をほこっていました。
1800年代には、フランスの技術を取り入れ、採掘・精錬ともに近代化を図っています。
1900年代初頭には設備が電化されました。
閉山へ
1943年(昭和 18年)、永野金山は、戦下において不要不急産業の指定により休山することとなります。
1950年(昭和25年)に、採掘が再開されますが、産出量は振るわず 1953年(昭和28年)には再休山状態となります。
以後も試掘されますが、新鉱脈が発見できず、1965年(昭和 40年)に正式に閉山が決まりました。
胡麻目坑口跡
胡麻目坑というのは、永野金山の第六番坑道です。
坑口が整備され保存されています。
現在、永野金山の遺構としては、県道沿いにあり最も目につく場所にあります。
坑道は横川の山ヶ野金山まで2km近く続いています。
ここからさらに、立坑、斜坑があり地底へ坑道が続いていていました。
永野金山の晩年には、鉱石の運び出しや工夫の出入り口として使われた、代表的な坑口です。
石造やコンクリート造の遺構も見ることができます。
坑夫専用風呂場跡
もともと坑夫用のお風呂を用意するという、福利厚生サービスはありませんでした。
1931年(昭和6年)ごろ、坑夫が金鉱石を持ち帰り換金する事件がおきます。
坑夫が一斉に逮捕され、鉱山が操業できなくなってしまいます。
失業者も増えて社会問題となっています。
会社側は、密売価格を月賦返納することで解決で決着を図りました。
そこで坑夫専用風呂をつくり、お風呂に入っている間に持ち物検査をするようになっています。
内山与右衛門の石碑
内山与右衛門は、永野金山の実質的な発見者とされています。
与右衛門は1642年に病死しています。
胡麻目坑が掘られたのは、1877年(明治10年)のことであり、与右衛門は最初からここにあったものではありません。
山の神にあったお墓は、閉山後行方不明となっていました。
公民館をつくるとき墓石が見つかったため、坑口に移されたものです。
トロッコ道鉄橋橋脚
近代化した新精錬所が三番滝できると、胡麻目坑から三番滝精錬所まで、約1.5キロメートル区間は鉄道で結ばれました。
今はトロッコ道の鉄道は残っていません。
平八重川と九郎太郎川には橋がかけられていました。
当初は木橋でしたが、1914年(大正3年)に橋脚を石造にして、鉄橋に架けかえられました。
現在は、九太郎川の橋脚を見学することができます。
現役時の九太郎川の鉄橋は、金山の名所で見物に来る人も多かったといいます。
三番滝製錬所跡
1909年(明治42年)につくられた、三番滝製錬所跡も確認しやすい遺構です。
当時、東洋一といわれた大精錬所、鉱山館という本部事務所など永野金山の中核施設が並んでいた場所です。
一帯の施設では、最盛期は1000名以上の従業員がいたといわれています。
また、鉱業館夜学校では金山の幹部を養成していました。
1926年(大正 15年)には、金山大火災により、精錬所一帯と 82 戸が全焼しています。
建物はその後建てられたものでしたが、現在は残っていません。
石垣とコンクリートの遺構を見ることができます。
シックナー
石垣の上に見えるのは、シックナーの遺構です。
シックナーというのは、鉱石から金を取り出すための水槽です。
金だけではなく、ほとんどの鉱山の製錬施設で見ることができます。
まとめ
永野地区には、数百年続いた金山の痕跡が、今はまだ残っています。
しかし、もともと山間にあった金山で道も狭く、自力では場所を特定できないものがたくさんありました。
興味がある方は、地元の方に聞いてじっくり見てまわるのも面白いかもしれません。
胡麻目坑口跡
鉱山館跡
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