願成寺と相良家墓地 人吉藩相良家の菩薩寺
願成寺は、1233年、相良家初代領主、相良長頼によって創建されたお寺です。願成寺は人吉城からみて、丑寅(北東)の方角にあたります。鬼門を守護する意味も含めて、氏寺としたといわれています。敷地の大部分は相良家墓地です。さらに登ると大村平家城跡です。
願成寺は、1233年、相良家初代領主、相良長頼によって創建されたお寺です。願成寺は人吉城からみて、丑寅(北東)の方角にあたります。鬼門を守護する意味も含めて、氏寺としたといわれています。敷地の大部分は相良家墓地です。さらに登ると大村平家城跡です。
瀬原観音は、相良三十三観音霊場の10番札所となります。旧来からの人吉市街にあり、現在も観光ホテルが並ぶ、人吉の商業地域の代表スポットにあります。境内の「ガランさま」と呼ばれる石塔は、耳の病気や、咳にご利益があるといわれています。
村山観音は、相良三十三観音霊場の9番札所です。期間限定開帳の観音さまが多い中、常時開帳してある貴重な観音さまです。村山観音は、元をたどると、観琳寺というお寺が由来です。現在は歓蓮寺になっていて、周辺は村山台地の一大聖域です。
中尾観音は、相良三十三観音霊場の2番札所です。相良家第21代領主、頼寛(よりひろ)の霊を弔うため祀られた観音さまです。一帯の墓地の中には「源兵衛さんのお墓」があり、受験シーズンのは合格祈願のお参りが増えます。お参りにはサトイモと焼酎を備えるのがならわしとなっています。
ウンスンカルタというのは、ポルトガルから伝わったカードゲームです。どういうわけか全国でも人吉だけで、現在も遊び続けられています。知る限りで人吉市は、ポルトガルとは縁もゆかりもありません。なぜ、ウンスンカルタが遊ばれ続けたのか、推測も交えてご紹介します。
観音寺観音は相良三十三観音霊場の13番札所となります。観音寺は相良前頼が、京都の東福寺の僧侶を招へいして建立したのがはじまりです。建立時の経緯から、相良氏との関係が強いお寺でした。その歴史の中で、3度も火災に遭っていますが、その度に再興されています。
湯の元観音は相良三十三観音霊場の8番札所となります。この観音さまは、人吉の古くからの泉源の近くにまつられているため、「湯の元観音」とよばれるようになりました。ここらあたりが、人吉温泉発祥の地といわれており、今でも温泉旅館が数軒あります。
栖山観音は相良三十三観音霊場の23番札所となります。駐車場から113段の石段を登った森の中にお堂があります。相良三十三観音以外も含め、球磨郡内で最大の観音さまとなります。 安産と子宝にご利益があることで有名です。お堂の横には「歯の神さま」の祠があります。
赤池観音は相良三十三観音霊場の33番札所です。相良氏の出城であった赤池城跡にある観音さまとなります。相良三十三観音廻りでは、1番札所から順番に回っても、順不同で回ってもよいとされています。1番札所から順番に回られた方は、最後の観音さまとなります。
久米治頼神社は、当主に反乱を起こした相良治頼(はるより)とその母がご祭神となります。相良治頼の病死後ほどなく、領主相良義滋(よししげ)も亡くなったため、治頼とその母のたたりがあるのではないかということで、供養の意味を込め建立された神社です。
矢瀬が津留(やせがつる)観音は、相良三十三観音霊場の3番札所です。相良氏が人吉城入城の際、かつての城主、矢瀬主馬助(やせしゅめのすけ)を謀殺しました。大みそかの出来事で、一本門松の由来にもなっています。その矢瀬氏の霊をまつる増運寺が、矢瀬が津留観音の由来です。
新宮寺観音は相良三十三観音霊場の32番札所となります。周辺は樹齢を重ねたモミジやカエデ、イチョウなどがあり、新緑や紅葉のスポットとしても知られています。 観音堂にはそれぞれ違った仏師が、年代を追い彫作した六観音が安置されています。