先の太平洋戦争で、戦局が進むに連れて前線が近くなってきた鹿児島県には、多くの軍事施設がつくられました。
なかでも、大隅半島に現在も残る戦争遺構を見てきたので、書き留めておきます。
国分海軍航空基地
国分海軍航空隊は大戦開戦後、航空要員を大量に養成するため初歩練習部隊として設置されました。
米軍が沖縄に上陸すると、実戦部隊に基地を譲り、特攻攻撃の発進基地として使われることになります。
国分第一飛行場
国分第一飛行場は、当時の東国分村大野原(現在の霧島市国分広瀬と国分福島)に建設されました。
1942年(昭和17年)に運用を開始したときには、出水海軍航空隊の分教場でした。
翌年に独立し、国分海軍航空隊となっています。
跡地の一部は、現在は陸上自衛隊の国分駐屯地になっています。
当時の滑走路の滑走地点には、「特攻機発進之地の碑」が建てられています。
住宅地に掩体壕(えんたいごう)が残っているほかに、当時の遺構はほぼありません。
掩体壕は、コンクリートで塞がれています。
そのため、内部を見ることはできません。
隊門は国分西小学校の交差点にあったのですが、現在は何も残っていません。
スポット名 | 特攻機発進之地の碑 |
場所 | 鹿児島県霧島市国分広瀬2丁目1-28 |
駐車場 | なし フレスポ国分店に停めさせてもらいました |
スポット名 | 国分第一空港 掩体壕 |
場所 | 鹿児島県霧島市国分福島2丁目22-11 |
駐車場 | なし 路上駐車しました |
国分第二飛行場
国分第二飛行場は、国分海軍航空隊の訓練と平行して、溝辺村に建設された飛行場です。
1944年(昭和19年)に完成しています。
跡地の一部が、現在の鹿児島空港になっています。
空港公園に、国分第二飛行場の滑走路をはがしたコンクリート片が展示されています。
国分第二飛行場を見下ろす上床公園には、「十三塚原海軍特攻の碑」が建てられています。
十三塚原とは、空港の造られたあたりの地名で、国分第二基地は十三塚原基地ともよばれていました。
上床公園にも、滑走路のコンクリートが展示されています。
展示されるのは海自の練習機T-34、通称メンターです。
スポット名 | 空港公園 |
場所 | 鹿児島県霧島市隼人町嘉例川651-10 |
駐車場 | あり 9台 |
スポット名 | 十三塚原海軍特攻の碑 |
場所 | 鹿児島県霧島市溝辺町麓 |
駐車場 | あり たくさん停められます |
桜島(牛根)海軍航空基地
桜島(牛根)海軍航空基地は、1945年(昭和20年)に設置された水上機基地です。
水上機基地であった指宿基地が空襲で使えなくなったため、秘密裏に設置されました。
水上爆撃機「瑞雲」はもちろん、零式水上偵察機を雷撃機に改修して配備していました。
本土決戦を覚悟し、同じく秘匿基地であった、福岡県の玄海基地とあわせて130機におよぶ大部隊を編成していました。
場所 | 鹿児島県垂水市牛根麓 |
駐車場 | 道の駅たるみず の敷地にあります |
桜島海軍基地
桜島海軍基地は、大戦終盤となる1945年(昭和20年)にできた基地です。
当時の桜島は鹿児島郡役所が管轄していたのですが、大隅半島と陸続きなので、大隅半島の軍事遺構としておきます。
配属されたのは、佐世保鎮守府で編成された、第5特攻戦隊でした。
第5特攻戦隊は、本土決戦を見据え蚊龍・海龍24隻、回天46隻、震洋725隻が在籍していました。
基地は、岩盤を手堀した地下施設です。
濠の高さ・幅はともに2~3m程で、トンネルが網の目状に張り巡らされています。
基地内に入ることはできませんが、入口の一部と魚雷保管室を見ることができます。
桜島海軍基地跡 | 鹿児島県鹿児島市桜島横山町 |
駐車場 | 桜島港駐車場 |
魚雷保管庫跡 | 鹿児島県鹿児島市桜島赤生原町1-7 |
駐車場 | なし・漁港に停めさせてもらいました |
垂水海軍航空基地
垂水にあった垂水海軍航空隊は、91式魚雷の整備教育を行っています。
そのため、飛行場を待たない航空隊で、目立った遺構などは残されていません。
91式魚雷は、旧日本海軍で大戦中使われた唯一の航空魚雷です。
97式艦上攻撃機や天山・流星などの、対艦船攻撃を目的とした艦載機に搭載されます。
隊員は訓練後、全国の航空基地や空母に配属されています。
場所 | 鹿児島県垂水市柊原 |
駐車場 | なし 跡碑裏の空き地に停めさせてもらいました |
岩川海軍航空基地
岩川海軍航空隊というのは、日本海軍の部隊です。
大隅町(現在の曽於市大隅町)にあった、岩川飛行場を基地としていました。
太平洋戦争末期になると、九州南部への空襲が激しくなってきました。
そこで、静岡県の藤枝海軍航空基地を本拠地にしていた第131航空隊・通称「芙蓉部隊」が配属されています。
岩川飛行場からは「彗星」と「零戦」飛行機を主とする、夜間戦闘部隊が沖縄方面へ出撃しました。
芙蓉之塔
芙蓉(ふよう)の塔というのは、岩川飛行場から飛び立った、戦没者のための慰霊碑です。
芙蓉の塔があるのは、航空機の発着地点だったあたりです。
滑走路は芝生敷で、昼間は滑走路に刈草をかぶせ牛を放牧していました。
建物や木は移動式にしていたため、終戦まで米軍に発見されることはありませんでした。
場所 | 鹿児島県曽於市大隅町月野1946 |
駐車場 | あり・曽於市埋蔵文化財センター |
通信司令部跡
岩川飛行場の地下通信司令部跡は、現在西馬場3区公民館になっています。
5カ所のコンクリート製入口が残っています。
しかし、いずれも塞がれていて中に入ることはできません。
場所 | 鹿児島県志布志市松山町新橋45 |
駐車場 | 西馬場3区公民館に停めさせてもらいました |
貯水槽跡
岩川飛行場の貯水槽は、半壊していますが、一部が遺構として残されています。
農地やお屋敷のなかですので、敷地外から見学することになります。
入り口にも遺構らしき、コンクリート構造物が残っています。
場所 | 鹿児島県曽於市大隅町月野 1099-2 |
駐車場 | なし 路上駐車となります |
地下発電所跡
岩川飛行場の地下発電所跡は、竹筋コンクリートの遺構です。
中をみることもできるそうですが、見学には所有者の方の承諾が必要です。
場所 | 鹿児島県曽於市大隅町月野 1099-2 |
駐車場 | 民有地です。事前に所有者の方に承諾を得て入場します。 |
芙蓉部隊搭乗員宿舎跡
特別攻撃に出撃する芙蓉部隊の搭乗員が、 出撃前に生活していた宿舎跡です。
敵機に発見されないように、 針葉樹林の斜面に建てられていました。
知覧基地などでみられる三角兵舎と同じです。
芙蓉部隊搭乗員兵舎は5棟あったのですが現存せず、痕跡さえありません。
しかし、兵舎跡には表示があり、県道110号線から兵舎跡の斜面を見ることができます。
5月になると兵舎跡付近では、兵隊さんたちをしのぶかのようにホタルが舞います。
場所 | 鹿児島県曽於市大隅町月野 |
駐車場 | なし 県道の脇道に路上駐車となります |
武器弾薬庫跡
岩川飛行場の武器弾薬庫跡は、現在鹿児島県食肉牛改良研究所の敷地となっています。
標柱から見渡した限り、遺構らしきものは見当たりませんでした。
場所 | 鹿児島県曽於市大隅町月野 |
駐車場 | なし 路上駐車となります |
地下整備場跡
地下整備場は、岩川飛行場の航空機を整備していた場所です。
現在の海野鉄工の敷地内になります。
とはいっても、終戦後数年で陥没してしまっており中に入ることはできません。
敷地外から、見渡しましたが換気口らしきものは確認することができませんでした。
場所 | 鹿児島県曽於市大隅町月野 |
駐車場 | なし 路上駐車となります |
四季の森トーチカ
四季の森トーチカは、本土決戦に備えて大崎町一帯につくられていた防衛陣地です。
四季の森からは、志布志湾や鹿屋市方面を見張ることができ、陣地として適していました。
展望所にある案内板では、ファームポンド周辺にトーチカが書いてあります。
ファームポンドあたりをかなりさがしましたが、トーチカをみつけることができませんでした。
実は、遊歩道沿いのトーチカはファームポンドよりずーっと先です。
訪れた日は、道を尋ねる人もおらずわからなかったので、次回、近くを通るとき寄ってみます。
場所 | 鹿児島県曽於郡大崎町持留 |
駐車場 | あり・普通車6台 |
串良海軍航空基地
串良海軍航空基地は、鹿屋市串良町にあった串良航空隊の基地でした。
開隊当初は、練習航空隊に指定され、整備教育を担当していました。
その後は、航空機搭乗員の練習生も入隊するようになります。
そして、戦局が進むと特別攻撃隊の発進基地として使われるようになりました。
平和公園
串良海軍航空基地の中核施設は、串良飛行場です。
終戦後は農地に戻っていますが、2本あった滑走路の交差点に平和公園が整備されています。
公園には、串良飛行場を発進し殉職した英霊の慰霊碑が建てられています。
その数は以下の通りです。
特別攻撃隊 | 363名 |
一般攻撃隊 | 202名 |
合計 | 565名 |
串良航空隊では、約5000名の練習生が訓練を受けました。
滑走路跡の脇には、串良基地に駐留した各隊所属者から寄贈された慰霊碑が並んでいます。
場所 | 鹿児島県鹿屋市串良町有里4831-3 |
駐車場 | あり |
串良基地地下壕第一電信室
串良基地には、地下壕第一通信室が現在も残されています。
ここは、串良基地から飛び立った特別攻撃隊員が、突撃前に送る電信を受信していました。
地下壕の中を見学することができます。
営業時間 | 9:00~16:00 |
定休日 | 年末年始 |
場所 | 鹿児島県鹿屋市串良町有里4963-2 |
駐車場 | バス用の駐車場ですが、空いていれば普通車も停めることができます。 |
内之浦砲台
内之浦砲台は、米軍の志布志湾上陸を阻止するため、内之浦町(現在の肝付町)にあった砲台です。
太平洋戦争終盤につくられたもので、大分県の豊予要塞に備えてあった塞砲が移されました。
一帯には、すくなくとも4つの砲台があったといわれています。
国道448号線の砲台跡は、公園化されていて簡単に行くことができます。
場所 | 鹿児島県肝属郡肝付町北方 |
駐車場 | あり・ふれあいパーク内之浦 |
海蔵集落の要塞
海蔵集落の要塞は、内之浦砲台のひとつなのですが、少し山道を歩く必要があります。
しかし、その分原形が残っていて戦中の姿がより想像しやすくなっています。
山中に2連式のトーチカが残っています。
砲口が向いていたのは、もちろん志布志湾です。
こっちには、機関銃坐が残ります。
場所 | 鹿児島県肝属肝付町北方2170-1 |
駐車場 | 海蔵バス停から先は駐車場がなく、徒歩がおススメです。 |
笠ノ原航空基地
笠ノ原航空基地は、もともと鹿屋町営「笠野原飛行場」で、陸海軍共同で賃借していました。
1922年(大正11年)からあった飛行場で、1936年(昭和11年)に完成した鹿屋飛行場より前からあった飛行場です。
太平洋戦争開戦前に、空母機動部隊の艦載爆撃機が、真珠湾攻撃の訓練を行っています。
1944年(昭和19年)からは、海軍航空基地として使われるようになりました。
終戦後は、そのほとんどが農地に転用されています。
笠ノ原基地地下道入口
笠ノ原飛行場跡には、現在も農地が広がっていて、地下道入口も農地のなかに残されています。
飛行場時代の地上施設は、米軍の爆撃でほぼ破壊されていたので、貴重な遺構となります。
滑走路へ通じる地下道への入口であり、地下司令部への入口でした。
場所 | 鹿児島県鹿屋市笠之原町 |
駐車場 | なし・路上駐車になります。 |
川東掩体壕
掩体壕(えんたいごう)というのは、敵機の空襲から飛行機を守るために作られた格納庫のことです。
川東掩体壕は、笠ノ原航空基地に配備されていた、零式艦上戦闘機などを収めていました。
場所 | 鹿児島県鹿屋市川東町8206-5 |
駐車場 | あり・バス3台、普通車3台 |
鹿屋海軍航空基地
鹿屋航空基地は、現在は海上自衛隊の基地になっています。
したがって、一般の人は入ることができませんが、併設された史料館を見学することができます。
場所 | 鹿児島県鹿屋市西原3丁目11-2 |
駐車場 | あり |
小塚公園
小塚公園は、旧鹿屋航空基地を見下ろす小塚丘につくられた公園です。
鹿屋飛行場は太平洋戦争終盤には、特別攻撃隊の中心的な発進基地でした。
小塚公園の慰霊塔は、鹿屋航空基地を発進した特別攻撃隊の戦没者908名を慰霊するものです。
場所 | 鹿児島県鹿屋市今坂町12560 |
駐車場 | あり・普通車11台 |
田崎掩体壕
田崎掩体壕は、鹿屋飛行場の南側に残っている掩体壕です。
農地の中にあり、近くで見ることはできません。
しかし、農道から見学することができます。
場所 | 鹿児島県鹿屋市田崎町 |
駐車場 | なし・農道に停めました。 |
第二鹿屋航空隊の碑
1936年(昭和11年)に開隊した鹿屋海軍航空隊は、日中戦争がはじまると南方へ進出します。
さらに、1942年(昭和17年)には日米開戦により、第751 部隊に改称しています。
陸攻専門部隊となり、ラバウルなどの南方戦線を転戦しました。
そのため、留守となった鹿屋航空基地では、艦上攻撃機と艦上爆撃機要員養成部隊として、二代目鹿屋航空隊が開隊しました。
1944年(昭和 19年)には、戦況悪化により基地を実戦部隊に明け渡しています。
鹿屋飛行場跡地に記念碑が建てられています。
場所 | 鹿児島県鹿屋市野里町 4499-1 |
駐車場 | 野里町集落センター前の消防団詰所に停めさせてもらいました |
野里国民学校・桜花の碑
桜花というのは、特別攻撃専用の1人乗り小型航空機のことです。
機首部に大型の徹甲弾を載せて、敵艦船へ体当たりする兵器です。
鹿屋基地の桜花による特別攻撃部隊は、「神雷部隊」といい、野里国民学校を宿舎としていました。
桜花の碑が建てられたのは、野里国民学校の跡地です。
野里国民学校の、国旗掲揚台の基礎部分が残っています。
なお、野里国民学校の国旗掲揚台の上部は、鹿屋航空基地史料館の敷地に移設されています。
場所 | 鹿児島県鹿屋市野里町 |
駐車場 | あり・バス3台、普通車5台 |
高須トーチカ
高須トーチカというのは、米軍の本土上陸に備えて、鹿屋市高須町につくられた防衛陣地です。
高須海水浴場の北側の海岸に、自然の岩盤をくり抜いたトーチカが残っています。
監視窓が見据えるのは、海岸です。
本土決戦があれば、ここで米軍の上陸部隊を迎え撃つはずでした。
場所 | 鹿児島県鹿屋市高須町 |
駐車場 | なし・高須公民館に停めさせてもらいました |
まとめ
九州南部には、大戦終盤になると米軍の上陸作戦に備え、多くの軍事施設がつくられました。
終戦後75年を経過した現在も、その遺構が数多く残されています。
遺構群は、我が国を守るために戦った戦没者や遺族の想いを振り返らせてくれます。
そして何より、同じ悲劇を繰り返さないために活かされています。
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