大穴持神社(おおなむぢじんじゃ)は、鹿児島県霧島市国分広瀬にある神社です。
![大穴持神社](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
大隅国の式内社となります。
![大穴持神社 社殿](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
通称は「おなんじさぁ」です。
ご祭神
![大穴持神社 鳥居](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
主祭神
大巳貴命(おおなむちのみこと)
またの名を大国主命(おおくにぬしのみこと)といいます。
![大穴持神社 鳥居](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
延喜式神名帳においても、大穴持神社と記されています。
![大穴持神社 石標](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
延期式神名帳というのは、927 年にまとめられた、全国の神社リストとのことです。
![大穴持神社 社紋](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
延期式神名帳に名を連ねた神社を式内社とよんでいます。
![大穴持神社 手水舎](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
出雲地方のオオクニヌシ信仰が、大隅国まで及んでいたことを示しているとされます。
相殿神
少彦名命(すくなひこなのみこと)
左殿にまつられるご祭神です。
![大穴持神社 左殿](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
主祭神の国造りのサポート役で、医療の神さまです。
大歳神(おおとしのかみ)
右殿にまつられるご祭神です。
![大穴持神社 右殿](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
素戔嗚命(すさのおのみこと)の子供で、穀物の神さまです。
ご利益
![大穴持神社 石灯籠](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
医療の神、マムシよけの神として信仰されています。
マムシよけ
ご祭神の大巳貴命が、農道を歩いていたところ、牛が突進してきたので麻畑に逃げ込まれました。
![大穴持神社 社殿の彫刻](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
ところが、麻畑にいたマムシにかまれてしまいました。
そのことから、大巳貴命は牛とマムシを嫌われると伝えられてきました。
![大穴持神社](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
そのため大穴持神社の近くでは、牛を飼ったり麻を植えたりしなくなったそうです。
また、この集落周辺には、マムシは生息しなくなったそうです。
縁結び・家内安全・子宝
ご祭神の大巳貴命は多くの別名を持ちますが、有名なのは大国主命(おおくにぬしのみこと)です。
![大穴持神社 石灯籠](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
15神もの妻と、150 神もの子供を持っていたとされています。
このことから「縁結び・家内安全・子宝」にご利益があるとされています。
医療の神さま
![大穴持神社 入口](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
相殿の少彦名命(すくなひこなのみこと)は、医療・酒・温泉に精通しており、病気平癒のご利益があることで知られます。
摂末社
![大穴持神社 三国名勝図鑑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
摂末社は、1843年に発行された「三国名勝図鑑」と、現在も同じ配置になっています。
日天宮(にちてんぐう)
大日靈神(おおひるめのかみ)をまつります。
![大穴持神社 日天宮(にちてんぐう)](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
天照大神(あまてらすおおのかみ)のことです。
稲荷宮(いなりぐう)
大宣都比売神(おおげつひめのかみ)をまつります。
![大穴持神社 稲荷宮(いなりぐう)](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
五穀の主宰神です。
月天宮(つきてんぐう)
月読神(つきよみのかみ)をまつります。
![大穴持神社 月天宮(つきてんぐう)](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
夜と食を治める神さまです。
大田宮(おおたぐう)
御年神(みとしのかみ)をまつります。
![大穴持神社 大田宮(おおたぐう)](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
農業と穀物の守護神です。
大王宮(だいおうぐう)
八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)をまつります。
![大穴持神社 大王宮(だいおうぐう)](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
漁業・航海の守護神です。
いぼ神さぁ
本殿後ろの石祠にまつられるのは、いぼ神さぁです。
![大穴持神社 いぼ神さぁ](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
イボの神さまです。
日清・日露戦争役記念碑
明治時代の戦争の戦役碑です。
![大穴持神社 戦役記念碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
当時従軍するには、鉄道も道路もなく、東国分村から熊本鎮台(現在の駐屯地)まで歩いて行ったそうです。
![大穴持神社 砲弾](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
日清戦争と日露戦争に従軍した127名の名が刻まれています。
忠魂士碑
社殿の東側にある石碑です。
![大穴持神社 忠魂士碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
戊辰(ぼしん)の役から大戦までの戦死者と、1945年(昭和20年)の空襲で亡くなった方の名が刻まれます。
小村新田の干拓
![大穴持神社 社地前の小村新田](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
江戸時代の終わりまでは、社地の南側は錦江湾が広がっていました。
![大穴持神社 入口](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
鳥居の下まで波が打ち寄せていたといわれています。
![大穴持神社と小村新田の説明板](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
潮止め工事が行われ、新田開発が行われたのは幕末です。
![大穴持神社 拝殿前の石灯籠](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
重機ない時代、想像を絶する大工事でした。
![大穴持神社 拝殿前の石灯籠](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
拝殿前の石灯籠は、1845年に干拓工事の成功を願って寄進されたものです。
遺効碑
鳥居の左側にある石碑です。
![大穴持神社 入口の説明板と遺効碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
小村新田は明治時代に入ってからも、島津家のものでした。
![大穴持神社 社地前の小村新田](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
約300人の農民が、小作料を払って耕作していました。
![大穴持神社 遺効碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
小作料と上納米で負担が重い農民は、土地の払い下げ交渉をすることにしました。
![大穴持神社 入口](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
1901年(明治34年)に農民の代表が交渉をはじめたときには、島津家は売却を認めませんでした。
![大穴持神社 遺効碑の説明板](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
しかし1903年(明治36年)、代表者の粘り強い交渉により、安く売り渡すことを承諾しました。
![大穴持神社 社地前の小村新田](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
このとき、代表者達の苦労と功績を後世に伝えるため、建てられたのが遺効碑です。
提防復興記念碑
1914年(大正3年)、桜島の大正噴火のあと、神社沖の海岸は干潟がなくなってしましました。
![大穴持神社 提防復興記念碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
地盤沈下のためだといわれています。
![大穴持神社 提防復興記念碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
その年の夏に来た台風で堤防が決壊します。
![大穴持神社 提防復興記念碑の説明板](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
新田に海水が入り、耕作ができなくなってしまいました。
1917年(大正6年)、堤防復旧を記念して建てられた記念碑です。
堤塘竣工記念碑
小村新田の堤防は、1951年(昭和26年)のルース台風でも決壊しています。
![大穴持神社 堤塘竣工記念碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
その年の収穫直前のことでした。
![大穴持神社 堤塘竣工記念碑の説明板](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
復旧工事は国営事業でしたが、終戦後の厳しい財政事業のため、地元も大きな負担を強いられました。
コンクリート堤防の竣工を記念して記念碑が建てられています。
小村小学校跡
社地の東側には、かつて公立小学校がありました。
![東国分村立小村小学校跡](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
東国分村立小村小学校です。
![東国分村立小村小学校 記念碑](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
1950年(昭和 25年)小村小学校と木島小学校が合併、国分西小学校が新設されています。
![東国分村立小村小学校 記念碑の説明板](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
1953年(昭和 28年)小村小学校は廃校となっています。
![東国分村立小村小学校跡](https://haradaoffice.biz/wp-content/themes/the-thor/img/dummy.gif)
小村小学校跡の記念碑が建っているほかは、遺構らしい遺構は何も残っていません。
小村小学校沿革
1878年(明治11年) | 東国分村立小村小学校創立 |
1886年(明治19年) | 小村尋常小学校へ改称 |
1902年(明治35年) | 小村尋常高等小学校へ改称 |
1941年(昭和16年) | 小村国民学校へ改称 |
1947年(昭和22年) | 東国分村立小村小学校へ改称 |
1950年(昭和25年) | 東国分村立国分西小学校新設 |
1953年(昭和28年) | 閉校 |
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