大穴持神社(おおなむぢじんじゃ)は、鹿児島県霧島市国分広瀬にある神社です。
大隅国の式内社となります。
通称は「おなんじさぁ」です。
ご祭神
主祭神
大巳貴命(おおなむちのみこと)
またの名を大国主命(おおくにぬしのみこと)といいます。
延喜式神名帳においても、大穴持神社と記されています。
延期式神名帳というのは、927 年にまとめられた、全国の神社リストとのことです。
延期式神名帳に名を連ねた神社を式内社とよんでいます。
出雲地方のオオクニヌシ信仰が、大隅国まで及んでいたことを示しているとされます。
相殿神
少彦名命(すくなひこなのみこと)
左殿にまつられるご祭神です。
主祭神の国造りのサポート役で、医療の神さまです。
大歳神(おおとしのかみ)
右殿にまつられるご祭神です。
素戔嗚命(すさのおのみこと)の子供で、穀物の神さまです。
ご利益
医療の神、マムシよけの神として信仰されています。
マムシよけ
ご祭神の大巳貴命が、農道を歩いていたところ、牛が突進してきたので麻畑に逃げ込まれました。
ところが、麻畑にいたマムシにかまれてしまいました。
そのことから、大巳貴命は牛とマムシを嫌われると伝えられてきました。
そのため大穴持神社の近くでは、牛を飼ったり麻を植えたりしなくなったそうです。
また、この集落周辺には、マムシは生息しなくなったそうです。
縁結び・家内安全・子宝
ご祭神の大巳貴命は多くの別名を持ちますが、有名なのは大国主命(おおくにぬしのみこと)です。
15神もの妻と、150 神もの子供を持っていたとされています。
このことから「縁結び・家内安全・子宝」にご利益があるとされています。
医療の神さま
相殿の少彦名命(すくなひこなのみこと)は、医療・酒・温泉に精通しており、病気平癒のご利益があることで知られます。
摂末社
摂末社は、1843年に発行された「三国名勝図鑑」と、現在も同じ配置になっています。
日天宮(にちてんぐう)
大日靈神(おおひるめのかみ)をまつります。
天照大神(あまてらすおおのかみ)のことです。
稲荷宮(いなりぐう)
大宣都比売神(おおげつひめのかみ)をまつります。
五穀の主宰神です。
月天宮(つきてんぐう)
月読神(つきよみのかみ)をまつります。
夜と食を治める神さまです。
大田宮(おおたぐう)
御年神(みとしのかみ)をまつります。
農業と穀物の守護神です。
大王宮(だいおうぐう)
八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)をまつります。
漁業・航海の守護神です。
いぼ神さぁ
本殿後ろの石祠にまつられるのは、いぼ神さぁです。
イボの神さまです。
日清・日露戦争役記念碑
明治時代の戦争の戦役碑です。
当時従軍するには、鉄道も道路もなく、東国分村から熊本鎮台(現在の駐屯地)まで歩いて行ったそうです。
日清戦争と日露戦争に従軍した127名の名が刻まれています。
忠魂士碑
社殿の東側にある石碑です。
戊辰(ぼしん)の役から大戦までの戦死者と、1945年(昭和20年)の空襲で亡くなった方の名が刻まれます。
小村新田の干拓
江戸時代の終わりまでは、社地の南側は錦江湾が広がっていました。
鳥居の下まで波が打ち寄せていたといわれています。
潮止め工事が行われ、新田開発が行われたのは幕末です。
重機ない時代、想像を絶する大工事でした。
拝殿前の石灯籠は、1845年に干拓工事の成功を願って寄進されたものです。
遺効碑
鳥居の左側にある石碑です。
小村新田は明治時代に入ってからも、島津家のものでした。
約300人の農民が、小作料を払って耕作していました。
小作料と上納米で負担が重い農民は、土地の払い下げ交渉をすることにしました。
1901年(明治34年)に農民の代表が交渉をはじめたときには、島津家は売却を認めませんでした。
しかし1903年(明治36年)、代表者の粘り強い交渉により、安く売り渡すことを承諾しました。
このとき、代表者達の苦労と功績を後世に伝えるため、建てられたのが遺効碑です。
提防復興記念碑
1914年(大正3年)、桜島の大正噴火のあと、神社沖の海岸は干潟がなくなってしましました。
地盤沈下のためだといわれています。
その年の夏に来た台風で堤防が決壊します。
新田に海水が入り、耕作ができなくなってしまいました。
1917年(大正6年)、堤防復旧を記念して建てられた記念碑です。
堤塘竣工記念碑
小村新田の堤防は、1951年(昭和26年)のルース台風でも決壊しています。
その年の収穫直前のことでした。
復旧工事は国営事業でしたが、終戦後の厳しい財政事業のため、地元も大きな負担を強いられました。
コンクリート堤防の竣工を記念して記念碑が建てられています。
小村小学校跡
社地の東側には、かつて公立小学校がありました。
東国分村立小村小学校です。
1950年(昭和 25年)小村小学校と木島小学校が合併、国分西小学校が新設されています。
1953年(昭和 28年)小村小学校は廃校となっています。
小村小学校跡の記念碑が建っているほかは、遺構らしい遺構は何も残っていません。
小村小学校沿革
1878年(明治11年) | 東国分村立小村小学校創立 |
1886年(明治19年) | 小村尋常小学校へ改称 |
1902年(明治35年) | 小村尋常高等小学校へ改称 |
1941年(昭和16年) | 小村国民学校へ改称 |
1947年(昭和22年) | 東国分村立小村小学校へ改称 |
1950年(昭和25年) | 東国分村立国分西小学校新設 |
1953年(昭和28年) | 閉校 |
関連記事
【関連記事】若尊神社 錦江湾を一望する自然の遊歩道・若尊鼻の最奥端にある神社
【関連記事】鹿児島神宮 南九州一ステータスのある大隅国一の宮
【関連記事】和気神社 清麻呂公が護った皇室の歴史と守護神の猪
【関連記事】大隅国・薩摩国神名帳令和版 鹿児島県の神社一覧表