寒川(さぶかわ)小中学校は、かつて宮崎県西都市にあった公立学校です。
1978年(昭和 53年)に閉校しています。
のちに寒川集落は、集団離村により廃村となっています。
寒川集落
寒川集落は、かつて三財川水系前川の上流にあった集落です。
古くから集落が形成されていて、江戸時代には寒川谷村とよばれていました。
明治時代は、200 人以上の人々が暮らす集落でした。
1936年(昭和 11 年)には、大火に見舞われ、大半の家が焼失しています。
この時、多くの住民が上三財に転居しました。
高度経済成長で限界集落へ
1959年(昭和34年)から、三財川総合開発事業がはじまり寒川は再び活況となります。
具体的には、立花ダムと寒川ダムの建設関係者が住むようになりました。
1965年(昭和40年)ごろまでは、200人以上の集落を維持していました。
しかし、高度経済成長と林業の衰退により、人口は急に減りはじめます。
1980年(昭和 55年)代には、集落の平均年齢が70歳以上という超限界集落になっていました。
そして廃村へ
集落は山間の中腹に位置しています。
人口の減少と高齢化により、唯一のアクセス道路も荒れてしまいました。
車を持つ世帯は少なく、日常の買い物に行くのに5時間もかかっていました。
高齢化が進み、ついには集落の維持が困難な状態になります。
1989年(平成2年)に最後の6世帯 13人が集団離村し、廃村となっています。
実は集団離村後も、1世帯が夫婦で残られていました。
その1世帯が離村された1998年(平成10年)が、正確な廃村です。
映像作品
映画「寒川」
映画「寒川」は、2007年(平成19年)に公開されたドキュメンタリー映画です。
寒川集落を中心に、日本全国の限界集落の問題を描いています。
寒川~私はここで暮らしたい
こちらの作品は、集落の往時の映像をみることができます。
宮崎の自然と風土、人間を撮り続けた映像作家、大町信平さんの作品です。
国内はもとより、国際的に高い評価を受けた作品を数多く作り上げられています。
現存する建物
ほとんどのお宅が倒壊または半倒壊しています。
倒れていない家は数軒になっていました。
立派な石柱のあるお宅です。
南向きのくつろげそうな空間が残っています。
集団離村当日、1989年(平成元年)2月23日の日経新聞も残されています。
1990年(平成2年)の商工会議所の手帳は、使われることなく置き去りにされました。
集団離村前に空き家になった建物のほうが多数派です。
神社は遷座されずこの地を守護しているのか、しっかりしています。
西都市は、畳を全部あげることと、かまどの破壊を条件に代替住宅を提供しました。
再び住民が、この集落に戻ることのないようにするためです。
校内
寒川小中学校は、集落の北側に位置します。
校門はコンクリートブロック製でした。
校庭
山の斜面を開いて、広い敷地を確保しています。
閉校記念碑です。
掲示板の前の板には、校歌が書かれています。
比較的新しいので、閉校後つくられたものかもしれません。
運動場
寒川集落唯一の運動場です。
思ったほどヤブになっていません。
敷地は江戸時代まで東福寺というお寺であり、この上にお墓があります。
また、さらに上に続く登山道への通路として現在も管理されています。
校舎
そしてなんと、校舎が残っています。
さすがに廃村集落の建物ですから、補修はされていません。
何とか自立している状態です。
倒壊する前に見ることができてよかったです。
オブジェ群
校門の横で出迎えてくれるイヌです。
閉校記念碑の横で歓迎してくれるサルです。
ソテツの葉に隠れるイノシシの親子です。
校庭から集落を見つめるシカの夫婦です。
陸に上がってきたヤマメです。
このオブジェは1966年(昭和41年)製です。
タイトルは「姉妹」です。
こちらは1972年(昭和47年)製、タイトルは「阿修羅」です。
プール
シャワー跡です。
更衣室で、向こう半分はトイレです。
水源から引いた水をいったん貯める、貯水槽を兼ねていました。
プールは仏像さんが監視役です。
寒川集落への行き方
まず、三財川と前川の合流点にある橋を目指します。
吐合(はきあい)橋といいます。
吐合というのは、川の合流点のことです。
案内標識が見えにくいですが、掃部岳方向へ進み150mでぐるーっと大きく右折です。
上の写真右側が吐合橋から、今昇ってきた道です。
案内板通りに左の坂道のほうへ、ぐるーっと右折します。
車は右端の電柱の前あたりに駐めさせてもらいました。
道路は想像と違い、土石や倒木や枝葉を除去してありました。
もしかして「車で行けるかも」と思うほど手を入れてあります。
しかし、程なくして大きな岩が道をふさいでいました。
急斜面にガードレールもなく狭いので、ムリして車で登らないほうがいいです。
車高の高い軽自動車や二輪車なら、なんとか行けそうです。
しかし、離合やUターンするところもないので、運転に自信のある人に限ります。
ちなみに携帯電話は圏外です。
入口の分岐から1.6㎞、30分歩けば集落跡です。
沿革
寒川小学校
1876年(明治9年) | 米良小学校の分教所として、東福寺跡に開設 |
1886年(明治19年) | 米良尋常小学校寒川分教場へ改称 |
1892年(明治25年) | 寒川尋常小学校として独立 |
1927年(昭和2年) | 第二三財尋常小学校へ改称 |
1941年(昭和16年) | 寒川国民学校へ改称 |
1947年(昭和22年) | 三財村立寒川小学校へ改称 |
1962年(昭和37年) | 西都市立寒川小学校へ改称 |
1978年(昭和 53年) | 閉校 |
寒川中学校
1950年(昭和25年) | 三財村立寒川中学校開設、寒川小学校に併設 |
1962年(昭和37年) | 西都市立寒川中学校へ改称 |
1978年(昭和53年) | 閉校 |
場所 宮崎県西都市寒川
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